[#表紙(表紙.jpg)] 最後の幕臣 小栗上野介 星 亮一 目 次   一 倉渕町で[#「一 倉渕町で」はゴシック体]     東善寺/小栗日記/鬼金、鬼定/賊を討ち取る/剛直   二 権田の六十五日[#「二 権田の六十五日」はゴシック体]     観音山/事態急変/虚像と実像/利左衛門の謎   三 不気味な存在[#「三 不気味な存在」はゴシック体]     一挙誅戮/血の粛清/相楽総三の処刑/亀沢の別れ   四 罪なくして斬らる[#「四 罪なくして斬らる」はゴシック体]     小栗の素顔/烏川落花/梟首/原の口演速記   五 会津逃避行[#「五 会津逃避行」はゴシック体]     権田村脱出/嶮岨な山径/入山村/妖怪変化   六 越後路[#「六 越後路」はゴシック体]     義理と人情/真彦母と娘の死/堀之内/新潟の情勢   七 会津戦争[#「七 会津戦争」はゴシック体]     横山の死/クニ子誕生/富五郎戦死/銀十郎無念   八 小栗一族の明治[#「八 小栗一族の明治」はゴシック体]     銀十郎の墓/謎の墓碑/小栗家再興   九 日本という国[#「九 日本という国」はゴシック体]     司馬遼太郎/威厳と知性/藤七の日記/「江湖新聞」/幕末政治家   十 国家改造計画[#「十 国家改造計画」はゴシック体]     フランスは国家を照らす/近代工業の夜明け/近代的マネジメント/夢と消ゆ  十一 小栗失脚[#「十一 小栗失脚」はゴシック体]     狂するがごとく/大村、江藤の述懐/小栗の出自/痩せ我慢の説  十二 大英雄にあらず[#「十二 大英雄にあらず」はゴシック体]     徳川中心主義/江戸開城の内幕/対馬でも敗北/会津藩  十三 上州路[#「十三 上州路」はゴシック体]     旧小栗本宅/恩讐を越えて/歴史の壁/大坪指方    あとがき    小栗上野介略年譜    小栗上野介関係文献 [#改ページ]   一 倉渕町で [#この行1字下げ]東善寺[#「東善寺」はゴシック体]  小栗《おぐり》上野介《こうずけのすけ》を尋ねて高崎から国道四〇六号線を上州|倉渕《くらぶち》村、現在の高崎市倉渕町に向かったのは、十五年ほど前の深まりゆく秋のさなかであった。  目指す倉渕町|権田《ごんだ》までは約三〇キロの道程である。この道は途中から国道一四五号線、二九二号線と乗り継いで草津に通じており、観光バスが何台か通り過ぎた。  二月は三十日まであり、桶川《おけがわ》、深谷、高崎と泊りを重ね、権田村の東善寺《とうぜんじ》に着いたのは三月一日である。深い山あいは春の兆しが感じられ、小栗の傷ついた心を癒《いや》すに十分であった。  倉渕町は群馬県の西部に位置し、右手に榛名《はるな》山がそびえ、各地の渓谷から流れる小さな流れが烏川《からすがわ》に集まり、いまでも当時の面影をあちこちに残す風光明媚《ふうこうめいび》な田園地帯である。私は小栗の一行を脳裏に浮かべながら車を走らせた。  目指す東善寺は、大きな石垣の上に本堂があり、どことなく要塞の感じもする古い寺院であった。  私は小栗上野介に複雑な想いを抱き続けて来た。それは信じられないほどあっけない最期のためであった。  幕府高官、たとえば勝海舟《かつかいしゆう》は西郷隆盛《さいごうたかもり》と談判し、江戸城を無血開城させたし、榎本武揚《えのもとたけあき》は北海道で蝦夷島《えぞとう》政権を樹立し、幕臣としての意地を見せた。高官ではないが外国方の福沢諭吉《ふくざわゆきち》は慶応義塾を起こし、著述家としても大成した。切れ者として通った小栗がなぜ、この倉渕町権田で無残な死を遂げねばならなかったのか、それが不思議でならなかった。  私と小栗の出会いは、恐らく小栗にとって眼中になかったかも知れない仙台藩士|玉虫左太夫《たまむしさだゆう》を通してであった。  玉虫左太夫は仙台藩参謀として奥羽越列藩同盟の戦略立案に当たった人物で、小栗と一緒に万延《まんえん》元年(一八六〇)正月、日米修好条約批准のため訪米した。左太夫は小栗の上司である新見豊前守正興《しんみぶぜんのかみまさおき》の従者として加わったもので、アメリカの軍艦「ポーハタン」に乗り込み、荒れ狂う太平洋の真っ只中に乗り出した。左太夫はアメリカの文明に接して幕藩体制の矛盾を肌で感じ、新しい近代日本の建設が急務であることを実感し、帰国した。小栗も想いは同じだった。  二人には日本の危機という共通の認識があり、焦る気持ちを抑えながら日本を見据えた点が共通していた。ただし、小栗は旗本の出であり、あくまでも幕府を再編する立場をとったのに対し、左太夫は外様《とざま》、仙台藩の出身であり、必ずしも幕府にこだわらない点が異なっていた。  左太夫も仙台藩の抗戦の責任を負って自刃し、明治の世を生きることができなかった。そのこともよく似ていた。  私は左太夫への想いもだぶらせながら東善寺の境内に足を踏み入れた。私のノートには『倉渕村誌』によって、あらかじめ周辺のデータが書き込まれていた。東善寺の開基は室町時代末期にさかのぼる。ただし開山は寛永《かんえい》十年(一六三三)で、現住職村上泰賢は二十一世である。この日は土曜日で、境内には十人ほどの参拝客がいて小栗の遺品をのぞき込んでいた。本堂は昭和十二年の大火の際、類焼し、現在の伽藍は昭和十八年に建てられたものだが、本堂には小栗の肖像画が掲げられ、また小栗父子の墓や親友の栗本鋤雲《くりもとじようん》と並んだ胸像もあった。当時、住職は県立高校の教師をされており、間もなく帰るということで、私はしばらく境内や寺の周辺を散策した。  小栗日記[#「小栗日記」はゴシック体]  突然の訪問にもかかわらず村上住職は、熱っぽい口調で小栗への想いを語った。村上さん自身、共著で『幕末開明の人・小栗上野介』の冊子を著しており、小栗を語るにもっともふさわしい人物の一人であった。  私は『小栗日記』を見せてもらった。群馬県文化事業振興会が群馬県史料集としてまとめた貴重な史料である。小栗は東善寺に着いた日から次々に起こる不可解な出来事を詳細に記していた。 [#ここから1字下げ] 慶応四年 三月|大《だい》 朔日《ついたち》 酉《とり》 天気よし 一、朝五時前高崎駅出立、室田へ昼前着、支度致しそれより夕七時|過《すぎ》、権田村東善寺へ着致し候 一、村役人ども機嫌聞きに罷出《まかりで》る 二日 戌《いぬ》 天気よし 一、終日在宿 一、三《さん》ノ倉《くら》村より博徒ども多人数相集り最寄村々へ廻文《まわしぶみ》を廻し、不同意の者は焼払い候など種々申触れ候|趣《おもむき》にこれあり [#ここで字下げ終わり]  東善寺に止宿した小栗のもとに三ノ倉に博徒が集まり、騒ぎを起こしていると通報があったのは権田村に着いた翌日であった。 「なにゆえ」  小栗はいぶかった。権田村は宝永《ほうえい》二年(一七〇五)から約百六十年にわたって小栗家の采地であり、住民との交わりは深いものがあった。訪米の時には権田村の名主佐藤藤七を従者に加えていたし、幕末には村から十六人の若者を江戸に召し出し、学問を授け、歩兵操典《ほへいそうてん》による訓練を受けさせていた。三ノ倉は隣村である。特に恨まれる理由はない。小栗は怒りに体がふるえた。  おもいあたることといえば、小栗一行の権田入りは、街道筋の博徒や農民の耳目《じもく》をそばだたせる鳴物入のものだったことである。「いささか軽率であったかも知れぬ」いまになっておもったが、それは遅かった。  江戸から同道したのは、妻の道子と母親の邦子、養子の又一《またいち》と養女の鉞子《よきこ》の家族五人と用人《ようにん》たちであった。『小栗日記』に用人や従者、人足の名前が記されておらず、明確ではないが、用人の塚本|真彦《まひこ》、給人荒川祐蔵、近習の沓掛《くつかけ》藤五郎、多田金之助、渡辺太三郎、小姓武笠銀之介(銀介)のほか、権田村生まれの大井磯十郎、佐藤銀十郎らフランス式歩兵訓練を受けた若者たちが護衛として付き、さらに何人かの人足が荷車を引いた。塚本は家族を連れていた。鉞子はいきこ[#「いきこ」に傍点]とも読む。  小栗は石高二千七百石、幕府勘定奉行をつとめた重臣である。  江戸上屋敷は神田駿河台にあり、母屋の外に石造の西洋館があった。西洋館のなかにはアメリカから持参した数々の品があったが、それらはすべて別送とし、小銃、ピストル、弾薬だけは、包装し、あるいは小箱や長持に収めて荷車に積んだ。  長持はかなりの重量になったため、なかには数十万両の公金が積み込まれたと、どこからか噂になり、沿道の注目を集めてしまったのである。  出立に際し、何人かの幕臣や会津藩の重臣が小栗を訪ねていた。日記に戸田肥後守《とだひごのかみ》、高橋能登守《たかはしのとのかみ》、古賀筑後守《こがちくごのかみ》、小笠原伊勢守《おがさわらいせのかみ》、滝川|播磨守《はりまのかみ》など旧幕府重臣の名前があちこちに記され、会津藩では戸嶋|機兵衛《きへえ》、神尾鉄之丞《かみおてつのじよう》、秋月悌次郎《あきづきていじろう》らの名が記されていた。会津藩の人々は皆、公用方の重臣で、会津に向かい、ともに戦うことを求めた。  小栗がすべての人々の誘いを断わり、権田村へ移住を決意したのには、それなりの理由があった。江戸出立を前に旧幕臣、振武隊長の渋沢成一郎に次のように心境を語っていた。 [#この行1字下げ] 予|固《もと》より見る所ありて、当初開戦を唱《とな》えたれども行なわれなかった。今や主君恭順し江戸は他人の有に帰《き》せんとする。人心|挫折《ざせつ》し、機は既《すで》に去った。もはや、戦うことはできない。たとえ会津、桑名諸藩が東北諸侯を連衡《れんこう》し、官軍に抗した所で、将軍既に恭順せられた上は、何んの名義も立たないのである。いわんや烏合《うごう》の衆をや。数月の後には事|応《ま》さに定まるであろう。然れども強藩互に勲功を争い、軋轢《きれつ》内に生じ、遂に群雄割拠《ぐんゆうかつきよ》となるであろう。我等は時機の到来を待つのほかなし。予はこれより去りて知行所権田に土着し、民衆を懐《なつ》け、農兵を養い、事あらば雄飛すべく、事なければ頑民《がんみん》となりて終るべし。(蜷川新《にながわあらた》『維新前後の政争と小栗上野介の死』)  とあり、戊辰戦争の行方を小栗は見透していたのである。  鬼金、鬼定[#「鬼金、鬼定」はゴシック体]  暴徒の総大将は長州浪人で金井壮助《かねいそうすけ》といい、その下に本郷村出の博徒|鬼金《おにがね》、鬼定《おにさだ》、下駄金《げたがね》などがいて、三《さん》ノ倉《くら》の全透院《ぜんとういん》に本拠を構え、「村々人数一軒に付き、一人ずつ借用仕り候。鉄砲これあり候者は、鉄砲持参なさるべく候」と回状を三ノ倉、水沼《みずぬま》、岩氷《いわこおり》、川浦の村々に廻し、世直しに加わるよう求めた。もし従わない者の家には火をつけて、焼き払うと脅したので、暴徒の数は雪だるま式にふくれあがった。  暴徒といっても加わったのは、一般の農民で、抑圧され、鬱積されたこれまでの気持ちが、いっぺんにとき放たれ、徒党を組んで気勢をあげた。どこの集会にも「世直し大明神」の旗が立ち、神社の杉木立の周りで毎晩のようにほら貝を吹き鳴らした。  村役人たちはなす術もなく、呆然と見つめるしかなかった。三ノ倉に集まった農民の数は二千人にも達したといわれ、世直しのため小栗を征伐すると息まいた。小栗のもとに刻々、その不穏な様子が伝えられた。  小栗にとって予期せぬ農民たちの反応であった。それには関東諸藩がいち早く薩長になびいたことも関係していた。主君|徳川慶喜《とくがわよしのぶ》が上野|寛永寺《かんえいじ》に居を移して謹慎の意を表したのは二月十二日である。これを機に安中《あんなか》藩を皮切りに前橋、吉井、小幡《おばた》、七日市の諸藩が相次いで薩長へ忠誠を誓い、これに合わせるかのように燎原《りようげん》の火のごとく一揆が起こった。鉄砲や槍で武装した農民が神社や寺院に集結し、村役人や商人、質屋などに攻撃を始めたのである。  薩長軍はここに金井壮助らの浪人をしのび込ませ扇動した。かくて沼田藩、伊勢崎藩も薩長の軍門に降《くだ》り、農民たちは鉦や太鼓を乱打し、各地で暴れ回った。一の宮では遊廓を襲って遊女を解放し、那波《なわ》郡|連取《つなとり》村、現在の伊勢崎市では農民数百人が集会を開き代官所を襲って母屋、土蔵、物置をことごとく打ち壊し、書類を焼き捨てた。村の十二軒の庄屋も襲われ、質物の無償返還や借金の証文を破棄させられた。  小栗が狙われたのは、数十万両に及ぶ巨額な公金を持ち出したという噂であった。噂が噂を呼び、農民たちは目をつりあげて権田村に向かおうとしていた。  農民たちにとって、小栗は雲の上の存在であった。それを襲撃しようというのである。そのこと自体に酔いしれた。 [#ここから1字下げ] 三日 亥《い》 雨夜雪 一、終日在宿 一、今日節句には候えども、御恭順御謹慎中に付、祝《いわい》も致さず候 一、昨日申聞き候三ノ倉村の徒党一条、ぜひとも家来どものうち相越し談判致し呉れ候様申聞き候に付、大井磯十郎|遣《つかわ》し候 [#ここで字下げ終わり]  小栗は話し合いによる解決をはかるため、とりあえず大井磯十郎を三ノ倉に派遣している。この日、朝から雨降りで、夜には雪に変わった。  村人たちは裏山に避難し、人っ子一人いない寒々とした畦道《あぜみち》を磯十郎は兄伝兵衛に刀を持たせ、全透院に向かった。途中の辻には、竹槍や鉄砲を手にした暴徒たちが殺気立ってひしめいている。 「来たな、野郎」  なかに磯十郎を罵倒する者もいたが、脇目もふらずにひたすら歩き続ける豪胆な姿に、それ以上の野次はなかった。  暴徒の本陣に着いた磯十郎は、 「わが殿は公金など運んではおらぬ。これがわが殿からの志。穏やかにお引き取りを願いたい」  と金子五十両を差し出した。 「なんだと、それっぽちの金でだまされるおいらではねえー」  鬼金、鬼定はあり金残らず出せとすごんで譲らない。 「かくなる上は、戦いも辞さぬ」  交渉は決裂し、磯十郎は談判を打ち切り、降りしきる小雪のなかを東善寺に引き上げた。  賊を討ち取る[#「賊を討ち取る」はゴシック体]  交渉決裂の報告を受けた小栗は、急ぎ防戦の手筈をととのえている。  翌四日朝六つ半(午前七時)三ノ倉村の暴徒たちが権田村目指して行動を開始した。  その数二千は下らないと、見張りの者が東善寺に駆け戻った。敵先鋒は早くも下平の椿名《つばきな》神社まで進み、烏川《からすがわ》の川岸ぞいに権田村に近づいているという。  事は急を要した。かねての手筈どおり佐藤藤七と武笠銀之介が母や妻、養女、塚原真彦の家族、村の婦女子をつれて、榛名山西麓の山中にある池田民吉の家に向かった。ここなら格好のかくれ家である。襲われる心配はなかった。  これを見送った小栗は、家臣たちに出動命令を下した。フランス式教練を受けた歩兵十数名と村内の猟師や屈強な若者百人ばかりが、昨夜から待機しており、これを五隊に分け、東善寺周辺を固めた。 「相手は烏合《うごう》の衆だ、勝てる」  小栗には自信があった。東善寺の前には荷車に樽をしばりつけ縄を巻いた擬装大砲を備え、火薬も詰めた。暴徒が迫ったら、どかんと威嚇する算段である。  小栗は又一とともに歩兵二十余名を率いて下手に走り、暴徒の本陣椿名神社に先制攻撃を掛けた。 「歩兵に撒兵進めの命令を下し、鎮守之森に屯集の賊を追討」し、「遂に三人を、打留め、一人鎗にて村内の者を突き止める」戦果をあげ、椿名神社の暴徒を蹴散らした。このあと山手に駆け、丘の上から烏川を上ってくる暴徒に激しく銃撃を浴びせた。なかに火縄銃を放って向かってくる者もいたが、物影にひそんで狙撃する又一の兵に、かなうべくもなく、我先に逃げ出した。  裏山の方は、荒川祐蔵、沓掛藤五郎の兵で食い止めていたので、小栗の兵はさらに敵を追い、暴徒の本陣になった宮原の名主丸山源兵衛宅に踏み込み、槍を手にした源兵衛を一撃のもとに斬り倒し、家に火を放った。  大井磯十郎、佐藤銀十郎、池田伝三郎ら用人たちの活躍は目ざましく、容赦なく暴徒を攻め、少なくとも二十人を殺し東善寺の石段に首をならべた。生け捕りも数人いて土蔵に監禁した。完勝だった。 「今日の戦に歩兵銀十郎儀は、すこぶる奮戦致し、遂に四人打取る。実に命中は感服の銃手にこれあり候」  小栗は笑みを浮かべて日記に記した。  夜に入ると、川浦、岩氷、水沼、三ノ倉の名主たちが東善寺に姿を見せた。二十人もの死者がでた上、生け捕られた者も多いことに名主たちは仰天し、羽織、袴姿で詫び状を持参した。皆、顔を引きつらせ首と捕虜を引き取りたい旨、申し出た。  小栗は異存無しと答え、今後は何事も談合の上、政事《まつりごと》を進めて行くことでお互いに合意した。しかし、不測の事態も予想されたので、この夜は村役人を人質として留めおいた。  翌日、村役人たちは東善寺の石段に並べられた首をもらい下げ、羽織に包んで帰っていった。これで暴徒はちりぢりになり、反乱も治まったかとおもわれたが、今度は中之条で一揆があり、村役人から小栗に鎮圧の依頼があった。  小栗は大井磯十郎、池田伝三郎、多田金之助、佐藤銀十郎らを応援に出すと、暴徒はたちまち、くもの子を散らすように逃げ去った。  この戦闘における大井磯十郎、佐藤銀十郎の活躍は目を見張るものがあり、フランス式歩兵の威力をまざまざと見せつけた。小栗は特に目ざましかった銀十郎を小頭に取り立て、その功をたたえている。  又一、磯十郎、銀十郎は洋服に革靴、腰に長刀を差し、その姿は俊敏そのもので、表情も精悍で、飛ぶように山野を駆け巡る歩兵を彷彿《ほうふつ》とさせた。         小栗が用人たちに歩兵訓練を受けさせたことが功を奏したのである。  しかし、この暴徒の襲撃こそ、薩長軍参謀が仕組んだ巧妙な罠であることに小栗は気づかなかった。単なる農民一揆の延長と見たのである。  剛直[#「剛直」はゴシック体]  暴徒による小栗襲撃の背景は何か。勝海舟の『氷川清話《ひかわせいわ》』に一つのヒントがある。 [#この行1字下げ] 越えて明治元年の正月には、早くも伏見鳥羽の戦いが開かれ、三百年の徳川幕府も瓦解《がかい》した。小栗も今は仕方がないものだから、上州の領地へ退居した。それをかねて小栗を憎んでいた土地の博徒や、また小栗の財産を奪おうという考えの者どもが、官軍にざん訴したによって、小栗はついに痛ましい最期を遂げた。しかしあの男は、案外清貧であったということだよ。  この文章から読み取れるのは、小栗がかなりの公金を持ち出したと、当時見られていたことである。  江戸を占領した薩長軍にとってノドから手がでるほど欲しいのは軍資金であった。大久保利通、西郷隆盛らは幕府の公金を握る男として小栗に早くから注目しており、どう転んでも七、八十万両を運び込んだと見ていたに相違なかった。  加えて小栗の知謀に恐怖を抱いた。関東には旧幕府脱走兵や会津藩兵が多くひそんでおり、歩兵奉行|大鳥圭介《おおとりけいすけ》や衝鋒隊《しようほうたい》の古屋佐久左衛門《ふるやさくざえもん》の動きとあわせ、極めて警戒すべき存在だった。小栗は徹底抗戦を叫んでいたからである。  鳥羽伏見の開戦以前、薩摩が江戸市中攪乱のため益満休之助《ますみつきゆうのすけ》ら無頼の徒を江戸藩邸に集め、江戸市中を荒らし回り、ついには江戸城に忍び込んで二の丸に火を付けたことがある。この時、断固、薩摩藩邸焼き打ちの断を下したのは小栗であった。実行部隊は江戸市中警備、庄内藩家老松平権十郎率いる新徴組だが、フランスのブリューネ砲兵士官が指揮をとったことも、小栗らしいやり方だった。  怒濤の江戸進攻を始めた薩長軍を前に、徳川|慶喜《よしのぶ》が在京の大名、旗本を集めていかにすべきか協議した際、勝が恭順を主張したのに対し、小栗は色をなして反論した。従来、将軍御前の奏上は臣下皆その首《こうべ》をたれ、恐々縮々として言上するのが三百年来の礼儀であった。しかし、この日は異なっていた。人々は皆極度に興奮し、かつ慶喜の態度が曖昧模糊《あいまいもこ》として一向に先が見えなかったため、言を発する者、発せざる者、皆首をあげ、憤然たる面持ちで慶喜を睨みつけていた。  途中で席を立とうとする慶喜に対し、小栗が、 「我らに反逆の名を付せられる理なく、非はすべて彼等にあり」 「何故に速やかに正義の一戦を決し給わざるや」 「我らは武士の取るべき正しき途に依らんのみ」  と語気鋭く迫り、慶喜はこれを振り払って奥に逃げ、大評定は終わったのであった。この場のことは多分に誇張され、小栗が激昂《げつこう》し、慶喜への礼を失したとする声もあったが、決してそうではなく、小栗は薩長軍を破る戦略を打ち立てた上で、直訴に及んだのである。  それは第一に海軍力の圧倒的な優位であった。旗艦「開陽丸《かいようまる》」は砲二十六門を有し、駿河湾で薩長軍を迎撃すれば完全に進路を塞ぐことができた。第二に幕府陸軍は無傷のまま江戸にあり、シャノワンやブリューネらフランス陸軍士官の指揮のもと箱根以東に敵軍を誘えば、敵は袋のねずみとなって全滅するに違いなかった。その時、間髪を入れず神戸、兵庫に海軍を回し、敵の背後を断てば援軍の途も後退の途もなく、作戦は頓挫《とんざ》しよう。かくするうちに九州の不平分子が反乱を起こし、そうなれば全国の大小名は徳川方につき、薩長は孤立する。小栗はこう踏んだのである。  これは実に理にかなっていた。幕府海軍を掌握する榎本武揚は、この作戦に双手をあげて賛成しており、榎本艦隊が動けば、薩長は大混乱に陥ること必定だった。  後日、大村益次郎《おおむらますじろう》が、この作戦が遂行されれば「我等の首はなし」と畏怖したことによっても明白であった。  小栗は、シャノワンやブリューネと親しい関係にあり、慶応三年の小栗日記には [#ここから1字下げ] 九月二十四日、シャノワン、ブリューネ来る、逢《あい》申し候 十月八日、シャノワン来る 十月九日、シャノワン来る 十一月三日、シャノワン来る、逢申し候 十一月四日、シャノワン、ブリューネ来る、逢申し候 [#ここで字下げ終わり]  と、ひんぱんに二人に会ったことが記されている。しかし、慶喜に戦う意志のないことを知った時、「もはやこれまで」と小栗は隠棲帰農《いんせいきのう》を決断したのであった。 [#改ページ]   二 権田の六十五日  観音山[#「観音山」はゴシック体] [#ここから1字下げ] 慶応三年 三月十日 午《うま》 天気よし 一、朝馬にて永井辺より山手の方へ相越《あいこ》し、昼頃帰宅 一、又一義も同道にて相越し候 三月十一日 未《ひつじ》天気よし 一、昼後より観音山《かんのんやま》普請場へ相越す 一、観音山開発の義、村方黒鍬へ申し付、四百坪平地に致し、代金三拾両程にて、出来の積り、まず先金五両相渡す [#ここで字下げ終わり]  暴徒の反乱を鎮圧した小栗は、権田村に永住すべく観音山に住居の建築を始めた。振武隊長渋沢成一郎に語ったように、いずれ自分を必要とする時期がくると確信していたものの、それまではここで、じっと耐えるしかないと小栗は考えていた。  小栗は養子又一とともに毎日のように馬で観音山に行き、整地の状況を見て回った。  観音山は小栗の持ち山である。東善寺にほど近い小高い丘陵で、榛名山からのびてきた裾野が烏川に落ち込む台地にあった。左右を深い渓流に挟まれ、北は榛名山|杏岳《すももだけ》、西は浅間隠《あさまかくし》山から岩岳、笹塒《ささどや》山を望み、眼下に流れる烏川ぞいに川浦、岩氷、水沼、そして権田の村々が一望できる地形であった。  江戸での喧噪《けんそう》の日々を忘れ、新たな人生を拓《ひら》くには、これほどの場所はないとおもわれた。  小栗が権田村で暮らすに当たって持参した金子《きんす》は三千両ほどであったとされている。暴徒に襲われ焼失した家々に数百両もの見舞金を出したので、人が言うほど潤沢な資金があるわけではなかった。ただし早川|桂村《けいそん》(珪村、圭村ともある)の「小栗の所持金余聞」(『上毛及上毛人』)に、小栗が運び込んだ味噌樽の底から無数の二分金が発見された、小栗追討の折、金銀の貴重品が掠奪されたなどが記されており、実際は三千両を上回ったと見た方がよいだろう。桂村については後で触れる。  自分の住まいをここに決めた小栗は、地元の大工に自ら設計した普請絵図を渡し木積《きづもり》を依頼するとともに山頂を開墾し、五反歩の畑と家族を養うため小さな水田を開く作業にも着手した。これらの手配に当たったのは百姓総代の池田九兵衛で、小栗は全幅の信頼をおいて仕事をまかせた。  観音山に天保銭を入れた叺《かます》をおき、河原石一個運ぶごとに一枚を与えたので、村民は競って手伝い、山頂はたちまち平な畑と宅地に変わっていった。 [#ここから1字下げ] 十三日 酉《とり》 天気よし 観音山へ水引く道の場所を一見致し、夕刻 帰宅致す [#ここで字下げ終わり]  水田を開くには水が必要なので、用水路も作ることにした。ここだけでなく近くの小高地区に用水路を開くことにした。小高の集落は田に水を引く用水がなく、湧水によって稲を作っていた。このため田植えは夕立や大雨が降るのを待って行ない、大雨が降ると、近隣の親類、縁者が大急ぎで駆け付け、代掻《しろかき》をして田植えを行なった。  小高の百姓が水がなく、難渋している、と聞いた小栗はアメリカから持ち帰った測量器を使って水源の稲瀬川と小高の間を測量し、村人たちを使って山を開き、土盛りをして用水路の開削工事に着手した。懐中時計で時刻をたしかめ、測量器で実測する小栗の姿を村人たちは惚れ惚れする面持ちで見とれた。 [#ここから1字下げ] 十四日 戌《いぬ》 天気よし 一、於道《おみち》事、今日|吉辰《きつしん》に付、着帯致し候、もっとも真彦母まき着帯の儀取扱候に付、同人へ祝儀百|疋遣《ひきつかわ》す [#ここで字下げ終わり]  この日、妊娠中の妻の道子の初めての腹帯の祝を村の酒屋、牧野長兵衛方で行なった。妻は播州林田藩一万石|建部《たてべ》内匠頭頭《たくみのかみ》政醇《まさあつ》の長女で、二人が結婚したのは小栗が数え二十四歳、道子十二歳の嘉永《かえい》三年(一八五〇)である。  建部家は戦国時代、近江箕作城主で、のちに徳川家に仕え、一族には旗本六千石の大身|蜷川《にながわ》家があり、住まいは小栗と同じ神田駿河台にあった。  道子は衣通姫《そとおりひめ》と噂された美貌の乙女で幼名は於綾《おあや》、小柄ではあったが、大名の息女にふさわしい気品と優雅さをただよわせ、用人塚本の母と女中が三人、いつも付き添っていた。塚本はもともと建部家の小姓で、夫人付きとして小栗に仕えるようになった。小栗とともに訪米し、英語も理解する英才で、小栗の側近中の側近である。  しかし、塚本親子の悩みは、夫人が一向に懐妊しないことだった。小栗家ではやむを得ず旗本|日下数馬《くさかかずま》家から鉞子を養女に迎え、権田へも連れて来た。日下数馬は小栗の父|忠高《ただたか》(中川飛騨守忠英四男)が小栗家に養子に入ったのちに生まれたため、次男として届けられ、日下家に養子に入った人物である。  小栗家にとって鉞子は単なる養女ではなく、小栗家本来の血筋を引く息女であった。  鉞子にはいささか申し訳ない気もしたが、小栗夫人の懐妊はほとんど絶望とおもわれていただけに塚本親子にとっては、無上の喜びであった。 [#ここから1字下げ] 二十四日 申《さる》 天気よし 一、お道お鉞ならびに女ども、近辺|摘草《つみくさ》に相越す、お母《はは》様も御出なされ候 [#ここで字下げ終わり]  暖かい日が続く三月末になると、小栗家の女たちがそろって摘草にでる光景も見られた。妻は妊娠五カ月、腹も目立つようになり、元気なわが子が生まれる日を小栗は指おり数えて待った。  事態急変[#「事態急変」はゴシック体]  小栗が建てようとした家は、現在も残っている。前橋市の総社《そうじや》町にある都丸《とまる》家の建物がそうで、間口十二・五間、奥行き七・五間、総二階建ての大きな建物である。玄関に式台を設け、正面に控の間、襖《ふすま》をあけると、その奥に用人たちの小部屋があり、主人や家族の部屋につながる。東端に厩《うまや》と台所があり、その辺りは女中や従者たちの小部屋にすることになっていた。  この母屋を中心に家臣たちの住まい、三棟を建てることにしていた。完成すれば塾も開き、村の若者に学問を授けようと、小栗は胸をふくらませていた。  三月十一日から始まった地ならしの作業は、小栗の日々の督励《とくれい》もあって順調に進んだ。江戸から引いてきたアラビヤ馬にまたがった小栗は、道の途中で村人たちに気軽に話しかけ、よくいわれるとっつきの悪い剛直な印象はなかった。  権田には、当時の小栗の面影を伝えるいくつかのエピソードが残っている。小栗が村人に道を尋ね、「サンキュー」といったので、村人は何のことだか分からず、口をポカンとあけて見送ったり、小高の佐藤竜作の家には二度ほど立ち寄り、縁側に腰をかけて気軽にお茶を飲んでいる。  女房クラが、お殿さまが来たというので、鍋に油をたらして卵焼きを作って出すと 「大変うまい」  と、ほめ、ぱくぱく食べたことが竜作の家に伝えられている。のちにクラは、 「殿さまの顔はアバタで気色《きしよく》がよくなかった」  と人に話したという。 [#ここから1字下げ] 四月 小《しよう》 朔日《ついたち》 卯《う》 天気よし 一、観音山普請場へ相越す 二日 辰《たつ》 天気よし 一、水路ならびに地平均の黒鍬手間ならびに新道等の代として、金百両勘兵衛(藤七)へ相渡す 八日 亥《い》 朝雨昼後晴天気よし 一、倉賀野より大砲その他荷物到着致す [#ここで字下げ終わり]  小栗は相変わらず観音山通いを続けていた。水路や地ならしに当たったのは名主の藤七で、金百両を手付けとして渡していた。江戸から大砲その他別便の荷物も着いた。この頃の日記に気になることがでている。 [#ここから1字下げ] 十六日 午《うま》 天気よし 一、騎兵組桜井|衛守《えもり》来り去る十一日、江戸御城も尾藩《びはん》へ御引渡し相なる、もはや致し方なし、右に付同志の者弐拾人脱走致し、会津へ相越し候、もっとも外にも多分有志の者、江戸表脱走致し会津へ罷越《まかりこ》し候て、後《のち》挙を斗《はかり》候積りに御座候旨申聞く、かつ路用無心候に付、金弐拾両|遣《つかわ》し候 二十九日 未《ひつじ》 天気よし 一、高崎、安中《あんなか》、吉井《よしい》人数当方へ罷越談判の筋これあり趣《おもむき》にて、追々出張致し候段、風聞《ふうぶん》これあり候に付、まず高崎へ沓掛藤五郎使者に遣し候処、神山辺迄、人数出張の趣に付、同所にて一通口上申入れ候処、何れも当方まで相越し、その上にて、談判も致し候趣故、磯十郎先へ帰村致し、その段申聞る [#ここで字下げ終わり]  一つは、幕府騎兵組の桜井衛守が来て、同志二十人が脱走、会津に向かったことを告げ、小栗が二十両を路銀として与えていることである。桜井は十九日にも来て五両を受け取っている。桜井から会津行きを要請されたに違いない。  もう一つは「高崎、安中、吉井人数当方へ罷越談判の筋これあり」の一項である。この時点で薩長軍東山道先鋒は明らかに小栗の首にネライを定めているが、当の小栗には、そうした危機感はなく、沓掛藤五郎を使者に出す程度で終わっている。なお、文中の「磯十郎先へ帰村」は藤五郎の誤りとおもわれる。  虚像と実像[#「虚像と実像」はゴシック体]  三カ月間の『小栗日記』を見て、不思議におもうのは、江戸の情勢について、さほどの関心を払っていないことである。  権田村に来てから『小栗日記』にでてくる江戸の便りは騎兵組桜井衛守を加えて、数回に過ぎない。 [#ここから1字下げ] 三月十二日 申《さる》 天気よし夜雨 一、江戸表へ遣し候|飛脚《ひきやく》の者、罷《まかり》帰り候、もっとも用状も来る、かつ駒井、日下の返書も来り、江戸表も官軍東下にて殊のほか混の由…… 三月十六日 子《ね》 天気よし暖和に相なる 一、元戸田肥後守家来、山岡丈助儀機嫌聞に参り面会致す 三月二十五日 酉《とり》 天気よし 一、江戸表より祐左衛門罷越し候、右に種々江戸表にても当方の儀取沙汰これあり、心配も有に付、罷越し候 江戸表も官軍の一条にて、何分にも不穏ある趣、まず大概は武家市中ともに家族は遠方へ立退き致候由 四月十三日 卯《う》 天気よし 一、江戸表より徳次郎機嫌聞に来る 四月十六日 午《うま》 天気よし 一、騎兵組桜井衛守来り…… 四月二十日 戌《いぬ》 天気よし 一、江戸表より十四日出し書状来る、別段相替儀もなき候由 [#ここで字下げ終わり]  江戸の便りはこのようなもので、小栗は事実を記すのみで、論評や感想は一切ないが、祐左衛門が心配ごとがあるといって尋ねてきたことが注目される。小栗が暴徒と騒動を起こした事が江戸で取り沙汰されているというもので、これは一つのサインであったに違いない。地元でも“小栗騒動”として大きな話題になっていた。しかし小栗は相変わらず観音山通いを続けている。  将軍慶喜に江戸決戦を求めた時の小栗の役職は、陸軍奉行|並《なみ》であった。海軍副総裁榎本武揚、陸軍歩兵奉行大鳥圭介とともに主戦論を展開したが破れ、正月十五日に罷免《ひめん》され、二十三日の組織の改編で勝安房《かつあわ》(海舟)が陸軍総裁、藤沢志摩守が同副総裁になっていた。  小栗はこの前後に大鳥圭介や古屋佐久左衛門、庄内藩重臣の松平権十郎、海軍士官の肥田《ひだ》浜五郎、三井の三野村利左衛門《みのむらりざえもん》らに会っているが、二月に入ると、「終日在宿」の日が多くなり、幕府関係者とは距離をおき、ひたすら権田村への帰農を考えるようになっていた。  役職を罷免されて領地の権田村に帰る以上、旗本ではあるが、もはや幕閣ではない、一人静かに生きる、そんな感じであった。  ただし、幕府が完全に崩壊した場合、旗本ではなくなる。当然、領地もなくなる。小栗はそこまでは考えていなかったようであった。だから微塵《みじん》も自分の生命に危険が及ぶと考えたフシがなく、江戸に家臣を残し、情勢を探らせた形跡もないし、高崎や安中など周辺諸藩の探索も行なっていなかった。  そして権田村に移ってからは、情報が途絶え、隔絶された村落で、おのれの世界に没頭する日々が続いたことになる。  小栗を剛直な主戦論者と見る向きは多い。代表的な見方として外交文書を駆使し、明治維新を解明した歴史学者石井孝の一文がある。 [#この行1字下げ]「主戦派の中心人物は小栗であった。文久以来一貫して幕府の権威伸張を主張し、徳川絶対主義のコースを推進してきた彼は、大政奉還にも反対し、江戸の薩摩藩邸攻撃をも主唱した。その主戦論がいれられなくなるや、上州の領地に帰って再挙をはかろうとしたが、政府軍に捕らえられて斬られた。いかにも幕権拡張論者にふさわしい最後であった」(『明治維新の舞台裏』)  というものだが、私が見る限り実像はひどくかけ離れていた。  小銃を持ち込み暴徒を鎮圧したが、それは幕府の再挙をはかるといったものではなく、おのれの領地を守り、家族とわずかばかりの用人や従者とささやかな暮らしをするためのものにすぎなかった。日記を読む限り権謀術数とは無縁な淡々とした生き方しか浮かんでこないのである。もっとはっきりいえば、あまりにも世事にうとく革命の姿を知らなすぎる世渡りの下手な小栗像が、クローズアップされてくるのである。  利左衛門の謎[#「利左衛門の謎」はゴシック体]  もう一つ気になるのは、親身になって小栗を助ける友人がいないことである。人間は本来、孤独なものだ。まして幕府倒壊という夢想だにしない混乱の時期である。他人のことなど構っておれないことは、よく分かるが、それにしても小栗は勘定奉行、陸軍奉行並の要職にあった人物である。  権田村への帰農を自ら決め、さっさと移住してしまったといえばそれまでだが、「生命が危うい」と警告した人物が祐左衛門を除いて見当たらないのは、不思議といえば不思議である。小栗の側近であった三井の番頭三野村利左衛門はどうしたのであろうか。利左衛門も小栗に忠告したフシがない。  小栗は慶応《けいおう》四年の正月、二月の二カ月間に、利左衛門に七回も会っている。  記述はきわめて簡略で「三野村利左衛門来ル」あるいは、「三野村利左衛門来ル、逢《あい》申し候」といったもので、話の内容は一切記されていない。正月七日には「三野村さむ年始ニ来ル」という記述がある。利左衛門の娘おさんのことである。このことから家族ぐるみの交際であったことがわかる。  利左衛門は天下の財閥三井を築いた政商である。  本来、小栗あっての利左衛門であり、その関係は深い。  この利左衛門という人物、出自は不明な点が多く、生国は出羽《でわ》庄内と江戸の二つの説がある。実父は出羽庄内藩三百石取り関口正衛門の三男松三郎で、松三郎はのちに同藩の木村利右衛門の養子に入ったが、子細あって出奔、諸国を転々とし、九州宮崎で死去、利左衛門と姉が残された。利左衛門は天保十年(一八三九)、十九歳の時、江戸に入り、深川の干鰯《ほしか》問屋丸屋に奉公する。  このあと丸屋の縁筋に当たる金座後藤の口ききで、神田駿河台の小栗家の住込|仲間《ちゆうげん》となった。これが小栗との出会いである。小栗の父忠高に目をかけられた利左衛門は、その真面目な勤務ぶりが買われて、神田三河町の紀ノ国屋美野川利八の婿養子になっている。  弘化《こうか》二年(一八四五)二十五歳の利左衛門は紀ノ国屋の娘なかと結婚、美野川利八を襲名した。小栗と利左衛門は六つ違いで、小栗の方が下である。  小栗にとっては、世事にたけた兄貴分、それが利左衛門であった。  安政《あんせい》二年(一八五五)小栗の父忠高が病死し、忠順が十二代を継いだ。忠順は外国奉行、勘定奉行と要職をのぼりつめ、安政六年には豊後守、文久《ぶんきゆう》二年(一八六二)には上野介に任じられた。  かくて、利左衛門は勘定奉行小栗上野介の財務担当として、幕府の財政を担うようになり、やがて三井両替店と昵懇《じつこん》な関係になる。政商利左衛門の誕生である。  小栗が勘定奉行として、幕府の財政を仕切るのは文久二年六月からである。  小栗が勘定奉行に就任した時期はペリーの来航に伴なう沿岸警備や海軍の増強、さらには製鉄所の建設と膨大な資金需要があり、三井、鴻池《こうのいけ》、鹿島《かじま》など江戸、大坂の豪商にさかんに上納金を命じた。なかでも三井は元治《げんじ》元年(一八六四)からの三年間だけで二百六十六万両に達していた。小栗はそこに新たに百万両を課した。  その時、三井のために減免に当たったのが利左衛門である。利左衛門は三井が商品を担保とし十万両を限度とする市中貸出しをやり、経済を活性化させる代案で、減免をとりつけ、経営危機に陥っていた三井を救済した。この縁で利左衛門は三井に迎えられ、初めて三野村利左衛門を名乗った。三は三井、野は養父の姓美野川、村は実父の姓木村からとったとされている。  以後、小栗と利左衛門は幕府発行の兌換《だかん》紙幣の発行をはじめ数々の財政政策を進め、三井を天下の豪商に成長させる。  こうしたこともあって小栗と三井の間には癒着《ゆちやく》の噂もあり、金の匂いが増幅されて行く結果を招く一因にもなった。  問題は三井が恩人の小栗にどう対処したかである。三井は京都が本店であり、鳥羽伏見戦後、薩長に著しく傾斜し、薩長新政府の重要な後ろ盾と変化していく。  利左衛門は一時期ひんぱんに小栗を訪れ、一説には千両箱を持参してアメリカへの亡命を勧めたともいうが、小栗が権田に帰農してからはばったり連絡が途絶えてしまう。利左衛門ならば、薩長軍最高首脳の大久保や西郷が小栗をどう見ていたか、生命に危険はないのかなど情勢を知り得たはずだったが、そのために動いた形跡はなく、小栗は、よもやの闇討ちに遭うことになる。 [#改ページ]   三 不気味な存在  一挙誅戮[#「一挙誅戮」はゴシック体]  小栗が暴徒と一戦を交え、六人もの村人を討ちとったことが、薩長軍東山道先鋒に、小栗抹殺の口実を与えることになる。東山道軍総督は岩倉|具視《ともみ》の子岩倉具定で、参謀は土佐の板垣退助と薩摩の伊地知正治《いぢちまさはる》である。鬼金、鬼定ら博徒をはじめ小栗襲撃に加わった各村々の名主から「小栗は七千の大軍を打ち破る兵力を持ち、かつ朝廷に反逆の意図あり」の訴えがなされ、高崎、安中、吉井の三藩に小栗|誅戮《ちゆうりく》の厳命が下ったのである。 [#ここから1字下げ]   回状  小栗上野介、近日その領地上州権田村に於て陣屋厳重に相構え候、これにくわえて砲台を築き、容易ならざる企《くわだて》これある趣《おもむき》、諸方へ注進|聞捨《ききすて》がたく、深く探索を加え候処、逆謀判然、上は天朝に対し奉り不埒至極《ふらちしごく》、下は主人慶喜恭順の意に相戻候に付、追捕の儀その藩々へ申し附け候間、国家のため同心協力忠勤に抽《ちゆう》すべく候、万一手に余り候は、早速本陣へ申し出ずべく候、先鋒諸隊をもって一挙誅戮致すべく候事  右之趣仰出られ候間相達申入候、急々尽力これあるべく候也   四月二十二日 [#ここから5字下げ] [#地付き]東山道総督府執事 松平右京亮殿 (高崎藩主) 板倉 主計殿 (安中藩主) 松平 鉄丸殿 (吉井藩主) [#ここで字下げ終わり]  小栗は話せば分かるという態度で臨んだが、事態はそうしたものではなく、小栗誅殺を東山道総督府が決断するに至った。おのれが正しければ、人は皆、理解してくれるとする小栗の理想主義が、薩長軍に通用するはずはなかったのである。  旧幕府陸海軍が続々脱走し、会津が断固抗戦を主張している折、薩長軍にとって、権田村の小栗は不気味であった。その経歴を振り返ると、輝かしいばかりの栄光に満ちており東山道総督府が誅殺を主張するのも宜《むべ》なるかなであった。 [#ここから1字下げ] 万延元年 九月  帰国  〃  十一月  外国奉行を命ず  〃  十二月  遣米使節の功により加増二百五十石 文久元年 四月  露艦対馬に入港に付、談判のため出張  〃   七月  外国奉行を免ず  〃二年 三月  御小姓組番頭を命ず  〃   五月  御軍政御用取調を命ず  〃   六月  勘定奉行勝手方を命ず 豊後守《ぶんごのかみ》を上野介《こうずけのすけ》と改めらる  〃   八月  江戸町奉行を命ず  〃  十二月  歩兵奉行を命ず  〃   〃   兼勘定奉行勝手方  〃三年 四月  歩兵奉行並を免ず 元治元年 七月  陸軍奉行並を命ず  〃   〃   免職  〃   八月  勘定奉行勝手方を免ず  〃  十二月  軍艦奉行命ず 慶応元年 二月  免職 慶応元年 五月  勘定奉行勝手方  〃二年 八月  兼海軍奉行並  〃  十二月  兼陸軍奉行並 〃 四年 正月  免職 [#ここで字下げ終わり]  幕府の要職を歴任した八年間に小栗は内政、外交、軍事、財政の全般にわたってさまざまの改革を断行し、いかなる難局に当たっても不屈の精神で臨み、不可能の言葉を吐いたことがなかった。小栗に仕えた明治の言論人福地源一郎は、「その精励は実に常人の及ぶ所ではない」(『幕末政治家』)と評したが、小栗は、栄光に満ちたおのれの過去をあまりにも過小評価し、帰農すれば、薩長とて我に危害を及ぼすことはないと、たかをくくっていたのかも知れなかった。  四月二十九日、三ノ倉に集結した高崎、安中、吉井の三藩の兵約八百は権田村進撃の手筈を整えた。小栗は沓掛藤五郎に続いて塚本真彦を三ノ倉に遣わし、事情を説明させたが、功を奏さず、翌|閏《うるう》四月一日には、高崎藩宮部八三郎らが兵を率いて権田村に入り、東善寺に小栗を訪ねた。  門前に兵を駐し、それはものものしい光景であり、村人たちは固唾《かたず》を飲んで見入った。 『小栗日記』は、この日のことを実に淡々と次のように記している。 [#ここから1字下げ] 閏四月 小 朔日《ついたち》 申《さる》 天気よし 一、終日在宿 一、昨日三ノ倉まで罷越し候高崎、安中、吉井人数の内高崎家来宮部八三郎、菅谷次兵衛、大野八百之助、板倉主計頭家来星野武三郎、福長十兵衛、星野閨四郎、松平鉄丸家来山田角右衛門、黒沢省吾罷越し面会致し候処、別紙の通り東山道総督府より回文を以て申越候に付、罷越旨申聞る [#ここで字下げ終わり]  この期に及んでも小栗は事態をまだ正確に把握しておらず、気持ちに余裕すらあった。  小栗は「観音山は兼々《かねがね》自分の持林に付き、雨露を凌ぐばかりの家作《かさく》をなした。別に要害になるほどの普請ではござらぬ」と事情を説明し、「十分に見分《けんぶん》を遂げ、小栗に異心なき旨を各藩より総督府に申し立ててほしい」と伝えた。  そして大砲一門と小銃二十丁も使者に手渡した。(一説には五丁)荒川祐蔵の案内で観音山を視察した宮部八三郎らは謀反《むほん》の企てなしと判断し、なお念のためとし、養子又一に高崎まで同道するよう求めた。小栗がそれを認めると、直ちに一同退散した。  又一はこの日同道を求められたのではなく、翌日出頭することで了承しており、小栗はこれで嫌疑は晴れ、又一が事情を総督府に説明すれば一件落着するものと判断した。  血の粛清[#「血の粛清」はゴシック体] [#ここから1字下げ] 二日 酉 天気よし 一、終日在宿 一、真彦、三ノ倉村高崎宿へ引合|遣《つかわ》し候処、明後四日、又一儀高崎城下へ相越し、それより同藩の者同道にて、行田《ぎようだ》まで相越し候積り、もっとも同所に総督|罷在《まかりあ》り候段、高崎家来申聞き候|趣《おもむき》 [#ここで字下げ終わり]  小栗は何事もなかったかのように、この日も冒頭に「終日在宿」と書き、四日に又一が高崎城下に行き、それから行田の東山道総督府に行くことを書き留めている。高崎藩を信じ、又一に危害が及ぶなど微塵《みじん》もおもっていなかった。なんともいえないいたましさを感じる。 『小栗日記』はこれで終わっている。その後の小栗のことを想うと、何故、もっと慎重に行動しなかったのか、残念としかいいようがない。  東山道総督府は、小栗及び又一をかなり早い段階で抹殺しようとしていたと考えて間違いない。  薩長軍東山道先鋒が上州に入ったのは、三月の上旬である。斥候隊薩摩藩川村与十郎が本隊入りの触書《ふれがき》を持って中山道坂本宿(群馬県松井田町)の村々を回った。東山道軍は三月十五日を期して江戸城総攻撃を命ぜられており、六日朝|追分《おいわけ》宿(長野県軽井沢町)を出発し、沓掛《くつかけ》峠で休憩し、熊野宮で戦勝を祈願し、その日の夕刻、上州坂本宿に入った。  出迎えた安中藩に碓氷《うすい》峠の警備を命じ、前橋と忍《おし》藩に高崎から江戸までの兵糧取扱いを命じている。これは江戸城総攻撃のための食糧の確保と武器、弾薬の輸送であった。この東山道軍の江戸進攻と合わせるかのように、江戸の旧幕府軍の動きも一段と活発になっていた。まず歩兵頭古屋佐久左衛門の指揮する衝鋒隊千五百余が羽生《はにゆう》陣屋(埼玉県羽生市)に入り、東山道軍に緊張が高まるなか、会津藩が沼田藩を動かし、上州進攻の噂が流れるなど戦々恐々たる日々が続いた。  さらに各地に頻発する百姓一揆に対する極度の警戒もあった。一揆が東山道軍に向けられた場合、江戸城総攻撃も頓挫《とんざ》することもありえた。百姓一揆はまさに後門の狼であった。  このため農民一揆にはひたすら懐柔《かいじゆう》する方策をとり、一揆の代表者がその理由を総督府に申し出れば、必ず善処すると布告した。しかし、これはあくまでも便宜的なものであり、薩長軍に不利に働く場合は、容赦なく鎮圧した。三月十五日、江戸城は無血開城したが、大鳥圭介らの脱走で関東の情勢はさらに悪化した。その関東の一角に小栗がいたことは、目ざわりだった。  小栗が暴徒を撃退したことは、東山道先鋒にとってまさに、歓迎すべきものであった。そこから得た小栗に関する情報は、ひどく増幅されたものであることは分かっていたが、これで誅戮《ちゆうりく》の名分を得たのである。  かくして小栗逮捕の命令が下る。出動した三藩は小栗に謀反の意志なしとしたが、総督府がこの報告を聞くはずはなく、三藩の報告は一蹴される。  東山道総督府が、薩長軍のなかで、もっとも戦闘的な集団であったことも小栗にとって不幸だった。敵、味方を問わず必要とあれば、血の粛清をする冷酷さを貫いたからである。まず新選組近藤勇の斬殺である。近藤は甲陽鎮撫隊を編成、若年寄格大久保|大和《やまと》と変名し、甲州に出兵したが、甲府は東山道軍に占領されており、勝沼、柏尾の戦いで敗れ流山《ながれやま》に逃れた。しかし大久保大和は近藤勇の変名であることを見破られ、板橋本陣に護送され、斬首された。  時に四月二十五日、近藤勇三十五歳である。『小栗日記』のどこを見てもこのことは記されていない。小栗は知る由もなかった。  東山道軍にとって、近藤勇の一件は、会津進攻のための行きがけの駄賃であり、それ以前に、もっとすさまじい血の粛清を断行していた。偽《にせ》官軍事件である。  相楽総三の処刑[#「相楽総三の処刑」はゴシック体]  江戸の薩摩屋敷の浪士隊長として暴れまくり、東山道先鋒をつとめた相楽《さがら》総三《そうぞう》が、次のような罪状で梟首《きようしゆ》されていたのである。 [#ここから1字下げ]   相楽総三  右之者、御一新の時節に乗じ、勅令《ちよくれい》と偽《いつわ》り官軍先鋒|嚮導隊《きようどうたい》と唱《とな》え、総督府を欺《あざむ》き奉り、勝手に進退致し、剰《あまつさ》え諸藩へ応接に及び、あるいは良民を動し、莫大《ばくだい》の金を貪《むさぼ》り、種々悪業相働き、その罪|数《かぞう》るに遑《いとま》あらず、このまま打棄て置き候ては、いよいよもって大変を醸《かも》しつ、その勢い制すべからざるに至る、これによって誅戮梟首、道々、遍《あまね》く諸民に知らしむる者也 [#ここで字下げ終わり]  総三は、どのような悪事を働いたというのだろうか。赤報隊《せきほうたい》を率いた総三は、宿泊地の本陣の前には必ず年貢半減の高札を立てた。これは独断で立てたものではなく、総三が建白し、太政官からの許可を得たものだったが、年貢半減は沿道諸藩に大きな動揺をもたらし、藩財政が崩壊すると反発した。  戦争はきれいごとではない。赤報隊は東山道先鋒嚮導隊と名を変え、江戸に向かったが武器、弾薬、食糧の大半を行く先々で調達しなければならない宿命があった。そこをつかれた。「無頼《ぶらい》の徒、鎮撫総督府先鋒と偽《いつわ》り、通行の道々、金穀《きんこく》をむさぼり、その他はかり知れぬ狼藉を行なっている」と告発を受け、偽官軍のレッテルを貼られたのである。  東山道総督府参謀にとって、年貢の半減は、やがて薩長政権の首をしめるものであり、速やかに総三を偽官軍として処断することに迫られた。総三ら草莽《そうもう》の士は、御一新のために働きながら、自らの陣営の官軍によって殺される悲劇の結末をたどる。  この年(慶応四年)二月六日、相楽総三の隊は下諏訪に入った。総勢三百人ほどで、総三ら数人が馬に乗り、五、六十人ほどが小銃を持って続いた。大砲は六門で長持三棹、弾薬|四駄《よんだ》、雑荷三駄が相楽隊のすべてであった。総三は官軍赤報隊執事の名で高札を立て、「官軍と偽り、暴威を以て百姓町人共に難儀をなす候者これある哉《や》も計《はかり》がたく候間、右等の者は取押置、本陣へ訴え出るべき事」と偽官軍でないことを明記し、いつもの通り年貢半減令をかかげた。  そこへ薩摩の伊牟田尚平《いむたしようへい》から至急京都に戻るよう連絡があり、総三の留守中に、偽官軍と処断する旨の回章《かいしよう》がもたらされた。  小諸藩兵が農民とともに相楽隊の宿営地信州追分宿の大黒屋を包囲、銃火を浴びせ、相楽隊幹部はことごとく殺され、知らせを聞いて戻った総三も三月二日に捕らえられ、寒雨《かんう》の降る諏訪神社の並木に縛りつけられた。  翌三日の夕刻、総三ら八人が下諏訪のはずれの刑場で斬首された。かぞえ三十歳であった。総督府は武力をもって独自に行動する草莽の士に恐怖をいだき、処分したに違いなかった。  長谷川伸の『相楽総三とその同志』に、下諏訪の本陣岩波太左衛門の談話がある。 [#この行1字下げ] 下諏訪がまた元の通りの静かな宿に戻ると、だれいうとなく、八名の死者に同情した話が広まった。相楽の最期が立派だったので、そういう同情が沸いてきたのか、それとも真の原因をだれかが漏らしてでも行ったのか、それは判らないが、相楽は偽《にせ》官軍ではなくって、真の官軍だったそうだが、あまり勢いがついてきたので、味方のうちに妬むものがあってああなったとか、いやいやそうではない、小諸、上田、高島などの諸藩が佐幕である尻尾を押えられ、相楽の隊のものにギュウギュウ遣《や》りこめられ、勤王の誓書を出したり、金穀の献納をしたりした。そこへ偽官軍だということになったので得たりと不意討をやったが、どうも本物らしいので困り抜いて、いろいろ策動してああなったのだという者も出た。甚だしいのは近村に出た幾つかの強盗事件は、赤報隊のものでなくして各藩の武士が計略でやったのだ、それから浮浪人が本当に泥棒をやったのだと説を立てる者すらあった。それはとにかく、後になって考えると支払いなどが几帳面だったし、人づかいも穏やかだった、そういうことに気がついて来て、同情がひどく起こった。  これが総三の真実の姿であったかも知れない。小栗にもどこか似たようなところがあり、革命の裏面は、こうした陰湿でドロドロしたものであった。  亀沢の別れ[#「亀沢の別れ」はゴシック体]  三藩の使者が帰り、又一が高崎に向かったが、小栗の耳に入る知らせは険悪なものばかりである。小栗は権田村の名主たちと相談し、二十人余の小栗歩兵を連れて、かねて強く要請されていた会津へ逃れることを決断する。  小栗一家が逃れたのは閏四月三日である。小栗は信頼厚い村年寄の中島三左衛門に「もしもの時は母と妻、鉞子を頼む」と後事を託していた。高崎に向かった養子又一と用人塚本真彦、沓掛藤五郎、多田金之助の安否が気になったが、三ノ倉に高崎藩など三藩の兵が集まり、ふたたび東善寺に向かう気配とあっては、ひとまず逃れるしかなかった。  小栗は三左衛門の案内で諏訪山麓を通り、上ノ久保の紙屋に避難した。紙屋は用人池田伝三郎の養子先池田民吉の家である。 「百三歳で亡くなったおかよばあさんが、よく言っていたが、小栗の殿さまと奥さんが、逃げる途中でうちへ寄って、縁側でお昼の麦飯を食べて、それから大沢へ逃げて行ったそうだよ」  民吉の孫の池田清太郎(明治四十三年生まれ)の話が残っている。(小板橋良平『小栗夫人の権田脱出路踏査記』)  紙屋で昼食をとった小栗一行は、さらに山に入って亀沢に向かった。ここは湯治場である。小栗と三左衛門が先頭に立ち、老年の母と身重の妻に養女の鉞子、それに三左衛門の娘さい[#「さい」に傍点]らを小栗歩兵が守り、お互いにかばい合いながら山道を登った。やがて道端にいくつかの道祖神《どうそじん》が見え、山あいの集落にたどり着いた。  家は二軒しかなく、小栗らは大井彦八の家にひとまず草鞋《わらじ》をぬいだ。  ここへ名主の佐藤藤七が駆け込み、 「殿、どうかお戻りいただきたい」  と懇願した。藤七はこの四十年、権田村の名主として内外の様々のことに対処し、小栗に随行して訪米までした人物である。それなりの世事にたけ、交渉事も場数を踏んでいた。語るところによれば、高崎方面に探索にいった藤七は、東山道先鋒の原保太郎に出喰わした。保太郎は京都|丹波《たんば》の生まれで、若い頃、江戸に出て斎藤弥九郎の道場で剣術を学んだことがあり、その技量を買われて、岩倉具視の用心棒になった男で、下諏訪では相楽総三の虐殺にも加わっていた。  保太郎は藤七が権田村の名主と知って引っ捕らえて小栗の脱出を吐かせ、東善寺に戻らなければ、村を焼き払うと脅した。藤七はその威圧に押され、小栗を連れ戻すことを約束してしまった。 「他意なきことを申し開きすれば、又一君の生命も助かり、村も焼き払われずにすむかと」  藤七はそうもつけ加えた。  小栗はこの時、藤七の言葉を信じるか、それともここは会津に逃れるべきか、ぎりぎりの選択に迫られた。三左衛門は会津行きを説得したというが、小栗は東善寺に戻るといった。これが母や妻との最後の別れになるかも知れぬ、その想いはあったが、申し開きをすれば、生命までは奪うまい、そういう一縷《いちる》の望みも捨てきれずにいた。  小栗の判断の甘さが、この時も出ている。  会津に向かう年老いた母、身重《みおも》の妻は、無事にたどり着けるのか。会津藩公用方の神尾鉄之丞や秋月悌次郎の申し出を受けて、あの時、会津に入っていれば、このような目にあわずに済んだかも知れぬ。そんな想いも脳裏をかすめたが、徳川家康以来の由緒ある小栗家の当主として、また幕府重臣として敵に後をみせることはできなかった。養子又一と用人らのことも気になった。見捨てれば必ず後悔する。そのこともあった。  地元の人、塚越|停春楼《ていしゆんろう》はもっとも早く小栗の無実を訴えた人で、『小栗上野介末路事跡』を著し、この時の様子を描き、 「その生別離苦《せいべつりく》の愁歎《なげきかなしみ》の状は、尋常一様にあらざりしと言えり」  と結んだ。  停春楼、本名芳太郎は、元治元年(一八六四)に、権田村の隣りの岩氷村に生まれた。幼時、父に連れられて見た小栗の悲運な最期が、少年期から青年期に次第に増幅された。二十六歳の時、徳富|蘇峰《そほう》の主宰する民友社に入り、言論界で活躍するが、この本と『小栗上野介末路事跡補正』の二冊を大正四年九月に行なわれた横須賀海軍工廠創立五十周年祝典記念の際に配布した。  横須賀海軍工廠は小栗の建議によって創設されたもので、その功にむくいるべく、冊子を刊行し、これが小栗上野介に関する最初の文献となるのである。 [#改ページ]   四 罪なくして斬らる  小栗の素顔[#「小栗の素顔」はゴシック体]  佐藤藤七の言動が、後々、疑惑をもって語られるようになった。その一つが小栗から前後、二回にわたり計四百両の借金をしていたことに絡む不純な動機説である。 [#ここから1字下げ] 三月二十日 辰《たつ》 天気よし 一、朝普請所へ相越す 一、又一儀は猟に相越す 一、佐藤藤七より相願い候に付、金弐百両|貸遣《かしつかわ》す、もっとも月々一割の利金相納め候積り也 四月十五日 己《つちのと》 天気よし 一、観音山にて乗馬致す 一、勘兵衛(藤七)へ金弐百両貸遣す [#ここで字下げ終わり] 『小栗日記』の二カ所に、藤七に金を貸したことが、明確に記されている。日によって藤七、勘兵衛と名前を使い分けているが、同一人物である。この外にもある。それは四月二日に観音山の地ならし及び新道開削費として百両手渡していることである。しかも四百両は月一割の高利である。一介の名主に過ぎない藤七が、これほどの大金を何に使おうとしたのか、また返済するあてがあったのか。たしかに金にまつわる疑念は残る。  地元ではこのことを把え、「東善寺に戻れば生命がないことを知っていながら、藤七が甘言を弄し、小栗を窮地に陥れた」とする見方もある。これは、あくまでも一つの推理であって、確証はないが、ここでもいえることは、小栗の人の良さである。持ち込んだ金三千両プラスアルファーのなかから四百両を、いとも簡単に貸し与えていることである。  一体、小栗はどのような育ち方をし、どんな性格の人間だったのか。こうした観点から小栗を論じたのは冒頭に引用した蜷川新《にながわあらた》の『維新前後の政争と小栗上野介の死』である。昭和三年に日本書院から刊行されたこの本は、小栗研究に欠かせない必読の書といっていい。  蜷川新は明治六年(一八七三)五月に静岡で生まれた。父は旧旗本五千石蜷川|相模守《さがみのかみ》であった。生後間もなく父を失い、母とともに東京に移り、母の生家で育った。母は播州林田藩一万石|建部《たてべ》内匠頭《たくみのかみ》の三女である。次女道子は小栗の妻である。つまり小栗の妻と蜷川の母は姉妹の関係にあった。  蜷川は東京帝国大学法科大学を卒業後、国際法学者として活躍、そのかたわら一族である小栗の顕彰に生涯を捧げたのである。戦後の昭和二十七年には『維新正観』を著し、一貫して小栗の正義を主張した。 「小栗は如何なる人物であったろうか。薩長本位の歴史には、この人の事業は毫《ごう》も記さるる所なく、その人となりは、従って今の日本人に知られていない。史家と称する人でさえも、この人物を知らぬ者すら往々ある」という書きだしで始まる蜷川の書(『維新前後の政争と小栗上野介の死』)は全編を通じて東山道総督府の非を責め、「これ国家の為に、又人道正義の為に、果して是認せらるべき事象であろうか」と追及してやまないのである。そのなかに「小栗上野介の人物と性格」と題する一章がある。 [#この行1字下げ]「小栗上野介は、二千五百石を領したる由緒正しき旗本の家に産れた、即ち立派な身分を生れながらにし、有しておった人である」  として、いくつかのエピソードを紹介している。  天保十一年(一八四〇)十四歳の時である。のちに妻を迎える建部家を訪れた。主人建部内匠頭と相対し、煙草をくゆらせながら言語|明晰《めいせき》、音吐《おんと》朗々、堂々と議論し、周囲の人々は皆その高慢さに驚きながら後世、いかなる人物になるかと噂し合ったという。  長じるにつれて、議論好きはとみに高じ、自説を曲げず仲間からは、天狗、あるいは狂人と呼ばれ、一見変わった男と見られていた時期もあったらしい。  風流にはまるで関心がなく、外国奉行役朝比奈閑水に誘われ隅田川の桜を見物に行った時も、桜の花を一向に見ようとせず、 「川の瀬の水利上の利害はいかがであろう。堰を今少し高くせば有利なのか、あるいは低くせば好いのか、民生のために善悪いかがであろう」  と、もっぱら水利の話に終始し、桜も酒も美人も目に入らず、朝比奈を唖然とさせている。お坊ちゃまで世間知らず、一旦思い込んだらとことん主張する青春像が浮かんでくる。人を疑うことなどしらぬ純粋さは、そうした育ちに起因していた。  烏川落花[#「烏川落花」はゴシック体]  母と妻道子、又一の許婚、養女の鉞子《よきこ》を村年寄の三左衛門に託した小栗は、家臣二人を連れて権田村の東善寺に戻った。着いたのは夜もふけてからで不気味なほど静まり返った境内に入った小栗は、本堂に端然と座した。この時は、小栗逮捕に向かった三藩の兵はどの位の数だったのか、明らかではないが、蜷川は約一千としている。  翌五日早朝、三ノ倉で隊を組んだ三藩の兵は二手に分かれ、一隊は東善寺の裏山に回り、一隊が東善寺正面から包囲する形で入ってきた。指揮を執ったのは東山道先鋒監軍原保太郎と豊永貫一郎だった。一説に巡察使|大音竜太郎《おおとりようたろう》指揮とあるが、大音はきていなかった。 「小栗上野介忠順、朝廷に対し奉り大逆《たいぎやく》を企てしこと明白なり。よって捕縛いたす」  原は有無を言わせず小栗と家臣の渡辺太三郎、荒川祐蔵を縛り上げた。 「由来、世人の伝うる所によれば、小栗上野介は、縛せられて神色自若《しんしよくじじやく》、何等怖れず何等怨まず、夙《つと》に決死にしておりし彼は、唯|従容《しようよう》自若としておったとの事である。流石《さすが》に彼は幕末九年間、国家を一身に負える天下抜群の政治家であったと云える。彼に才あり勇あり而して修養あり、敬すべき所である」  蜷川はこう記している。はたしてこのように泰然自若たるものであったのかどうか。小栗の性格からして、激しいやりとりがあったのではないだろうか。小栗はおのれに罪なきことを信じており、相手のなすがままに、縛に就いたとはおもえないからである。  この間、名主藤七はどこで何をしていたのか。これについては記録がない。「はかられたか」小栗の胸に初めて疑念がわいたのは、この時かも知れない。  小栗は駕籠に乗せられ、三ノ倉の名主戸塚平右衛門の家に連行された。ここは東征軍の陣営になっており、小栗ら三人は何らの取り調べもないまま一室に監禁された。  間もなく大井磯十郎が、 「おれはお殿様の家来大井磯十郎だ。お殿様に何の罪がある」  と、陣営に怒鳴り込んだ。磯十郎はなぜか小栗と行動をともにしておらず、夫人の後を追って会津に向かうか、あるいはどこかに逃走すれば、生命を落とすこともなかったが、自ら名乗り出てすぐ捕縛された。  翌六日朝、四ツ半時(午前十一時)小栗主従は烏川《からすがわ》の水沼河原に引き出された。村のあちこちに小栗上野介処刑の高札が立てられ、それを見た村人が、あちこちから集まっていた。  この朝、原保太郎が部屋に茶漬けの膳を運ばせたが、手を付ける者は一人もいなかった。  小栗が河原の刑場に引き出された時、群衆の間からなんともいえない吐息がもれた。水沼河原は真ん中に中洲があり、中洲をはさんで、烏川がゆるやかに流れていた。三ノ倉側の川瀬に太郎橋、水沼側に次郎橋がかかり、太郎橋の手前に小さな堤防があって、柳の木が数本茂り、その辺りが河原になっていた。 『倉渕村誌』に、この日の模様が記されている。水沼の関次郎、関午中の談話として収録されたもので、河原の道路わきの荒地の真ん中に穴が掘られ、その脇に蓆が敷かれ、小栗主従は後ろ手に縛られたまま端座させられた。たとえ幕府勘定奉行の高官といえども、薩長に手向かえば、こうなるという見せしめであり、そのためには、なるべく多くの村人を集め、口から口へそれを伝えさせることが必要だった。  処刑は警備や取りかたづけの下役人のものものしい警戒のなかで行なわれた。  上野源作、下平余文治、牧野五郎ら地元の人々の体験談や古老から聞いた話によると、荒川祐蔵、大井磯十郎、渡辺太三郎、小栗上野介の順に穴の前に座らせられ、最初に祐蔵の首が刎《は》ねられた。 「我らに何の罪なし、一言の取り調べもなく斬られるは無念!」  磯十郎が悲痛な声をあげ、官兵を睨みつけると、 「この期《ご》に及んで未練がましいぞ」  と、小栗がさとした。小栗は諦めの心境に達していたとおもわれる。 「さすがは小栗さまだ。勇あり、胆《たん》あり、偉いお人だ」  村人は感嘆したという。  下平余文治は五歳だった。作番頭の背に負われて見物に行った。五歳というと、どの程度の記憶があるか疑わしいが、最後に小栗が斬られた時、穴の前に両足を組んだまま前方にうつ伏せにのめり、白足袋が見え、その白さがあざやかな印象になって今も残っていると、家人に語ったという。  蜷川新の本では、斬首に当たり、官軍が唯一、小栗に向かい、 「何かいい遺《のこ》す事はなきか」  と問い、小栗が、 「何事もなし。ただ、すでに母と妻を遁《にが》してやりたるをもって、これら婦女子には寛典を望む」  と答えた、とある。  これは古老たちの談話にはない。蜷川が誰から聞いたのか、明記されていないので、事実かどうかは分からない。処刑の場は、こうした会話ができるほど、整然としたものではなく、脚色されたことも否定できないからである。  この時の首斬り役人は安中藩の徒目付《かちめつけ》浅田五郎作といわれている。身長六尺近い大男で、剣の達人という触れ込みだった。しかし磯十郎の首を刎ねようとした時、腕が縮み、振り上げた五郎作の剣が乱れたとも伝えられ、なんとも凄惨《せいさん》な光景が展開された可能性もある。  普通、武士は切腹の形をとり、介錯人が首を刎ねるが、この場合は後ろ手に縛られたまま斬られている。いかに剣の達人でも、斬る場合、半分目をつぶって力まかせに振り下ろすので、手もとが狂い、肩に刀が食い込み、斬られた方は異様な声を発してのたうち回り、そこをまた斬り付けることが、しばしばあったという。  蜷川は「官軍方の下手人の心は怖じ、その腕鈍くして、一刀を以て首を斬り落し得ず、無惨にも二刀にてこの国家の忠臣の尊き首を、拙《から》くも斬り落した」と書いており、これが事実とすれば、小栗の最期は鬼気迫るものがあった。  小栗上野介、享年《きようねん》四十二であった。  梟首[#「梟首」はゴシック体] 「官軍等は、この非道なる斬首を敢てし、日本国家の功臣を殺害したる後、さらに残虐にも小栗上野介の首を青竹の尖端につきさして、これを路傍に樹てて、梟首《さらしくび》の辱《はずかし》めを与えた」  蜷川新は声を大にして、薩長の非道をなじる。  小栗主従の首級《くび》は、青竹にさされ烏川に近い上河原と下河原の境の草津街道沿いの土手に梟首された。 [#ここから1字下げ] 右之者朝廷に対し奉り大逆を企《くわだ》て候条明白に付、天誅を蒙るもの也 [#ここから3字下げ]   慶応戊辰閏四月 東山道先鋒総督府吏員 [#ここで字下げ終わり]  小栗の首には、このような捨札が立てられ、従者の首には「此者共、主人の悪を逢仰し共に奸逆《かんぎやく》を働き候条明白に付、天誅を加え梟首するものなり」と書かれた捨札が立った。首から下は佐藤藤七と池田長左衛門がもらいうけ、戸板に乗せて権田村に運んだ。  夜になって権田村の村人が首を盗みに来たが、小栗の首は東征軍の本営がおかれた館林に持ち出されており、従者三人の首しかなかった。  村人は監視に当たっていた三ノ倉の番卒に五両を渡し、首を盗みとった。この金はどこから出たのか、まとまった金を持っていた藤七が出したのかも知れない。  この頃、又一たちにも危機が迫っていた。又一らは高崎藩の祈願所、石上寺に幽閉されていたが、五日には大小を取りあげられ、監禁された。七日九ツ半時(午後二時)には高崎町奉行所の白洲へ引き出された。 「わけを知らせよ」  又一が激しく抗議すると、 「重役の命令だ」  高崎藩士谷口周道が答え、又一主従は捕縛された。 「重役とは誰か」  又一はなおも、食い下がった。 「総督府の重役である」  谷口は総督府参謀の命令であることを明らかにした。  もはや抵抗は無駄であった。又一主従は有無をいわせず牢屋頭に連行され、東山道総督府|軍監《ぐんかん》豊永貫一郎が、罪状を読み上げた。 [#ここから1字下げ] 小栗又一 その方儀、父上野介と共に反逆明白に付、天誅を行うもの也 [#ここから2字下げ] 戊辰閏四月 小栗上野介家来 塚本真彦 沓掛藤五郎 多田金之助 [#ここから1字下げ] 右者共上野介を助け、反逆を企て候条明白に付、天誅を加え梟首するもの也 [#ここから2字下げ]  戊辰閏四月 東山道総督府吏員 [#ここで字下げ終わり]  蜷川新が憤慨するように、又一主従に梟首に値する罪状は何もなかった。朝廷に対し反逆明白とあるが、理由がまったく示されない理不尽なものであり、又一主従にとっては、おもいもよらぬ災難であった。四人は次々に斬られ、首のない四人の遺体は小栗の采地の一つ、群馬郡|下斉田《しもさいだ》村(高崎市)の名主がもらいさげ、村内の観音堂前に埋葬した。その後、人目につくというので、阿弥陀堂の地内に移葬した。  小栗が処刑された水沼河原には、大きな石碑が建てられている。 「偉人小栗上野介 罪なくして此所《ここ》に斬らる」の文字が高さ一メートル八十センチ、幅九十センチ余の碑面に刻まれている。文字は蜷川新の筆によるもので、昭和七年に当時の倉田村長市川元吉が委員長となり、倉田、烏渕両村の有志から寄付を募って建設した。元来、碑は処刑地にもっとも近い所に建てられたが、昭和十年の水害で流され、そこから四十メートルほど離れた現在地に再建された。ここに来て見ると、烏川の川幅が意外に広いことに驚かされる。水は小さな流れしかなく、川底は大きな石でゴロゴロしている。しかし見晴らしはよく、堤防に大勢の人が集まり、恐る恐る小栗の処刑を見物していたであろうことは、容易に察せられる。  当時、ここは旧水沼村に位置するが、すぐ隣りに旧三ノ倉村が細長くつながっており、三ノ倉の村人は複雑なおもいでのぞき込んだことであろう。三ノ倉は暴徒の拠点になり、つられて何人もの村人が小栗の襲撃に加わっていた。犠牲者も出ていた。  ここにたたずんで、あれこれ想うと、なかなか立ち去りにくく、私は何度かここを訪ねることになる。  ところで小栗と又一の首級《くび》は館林《たてばやし》の東山道総督府鎮撫使役所に送られ、岩倉総督が、首実検したあと館林の泰安寺に下げ渡され、さらに同じ町内の加法師《かぼうし》にある法輪寺に移され、杉の老木の下に埋められたとされている。 『倉渕村誌』によると、岩倉総督は首実検のあと「上野介は任官もせられた者であるので、粗末なきよう」言葉をそえたという。後日、巡察使|大音竜太郎《おおとりようたろう》が権田村を尋ね、村の有力者二十人ほどに会い、名主佐藤藤七に金二十両を託し、小栗をねんごろに弔うよう命じている。これは何を意味するのか。  旧幕府高官を取り調べることもなく梟首したことへの償いなのか、あるいは総督府最高首脳の大久保や西郷の間に「まずかった」という後悔があったのか、梟首を知った三井の三野村利左衛門が抗議したのか、いろいろ考えるむきもあるが、大音竜太郎に同行した渋川宿の問屋後藤八郎右衛門の日記に、謎を解くカギがあった。 「権田村が御仁政に伏す様、金弐拾両御下し候」とあり、小栗の領地を没収し、新たに薩長領地とするための民心|収攬術《しゆうらんじゆつ》であった。  大音はさらに権田村からの帰途、三ノ倉に立ち寄り、十五年間も病夫に尽くし、幼児を養い、生活を立てたとして村の女やすに金五両を遣わすなどの気配りも見せていた。これも天朝になびかせるための手段の一つであったと解すべきだろう。ともあれ小栗父子の死は、あくまでも見せしめであり、幕府勘定奉行の肩書きと切れ者という名声におびえた東山道先鋒の処断であった。  原の口演速記[#「原の口演速記」はゴシック体]  高崎市史編纂専門委員中島明は「小栗は土佐藩参謀板垣退助の命令で抹殺された」と明言する。  蜷川新もかつて同じ事をいったが、その史料が小栗斬首の指揮を執った東山道先鋒軍監原保太郎の『維新史編纂会原保太郎口演速記』(東京大学史料編纂所蔵)である。そこにはほぼ次のようにある。文中の参謀とは板垣である。 [#ここから1字下げ]  三月晦日でございましたか、同じ斥候をしております豊永貫一郎、それから私と二人が参謀から呼ばれまして、上野の権田という所に小栗上野介の領地がある。そこに小栗が引込んでいる。それへ持って来て、越後へ回っている幕兵の古屋佐久左衛門の隊が小栗の方へ廻り、板橋の本陣を襲撃すると云うことが聞こえるから、速に断然たる処分をせいと云う命令がありました。  それで豊永氏と両人で高崎まで参りました。高崎で権田へ行くについて兵を出せというと、どうも何か故障を言うて、どうしても兵を出そうと致しませぬ。矢張り徳川氏からの命令でも無ければ兵を動かせぬというような意味で、どうしても兵を出しませぬ。非常に両人とも立腹しまして、そういう事ならば兵を出すに及ばぬから、要らぬ。総督府へ行って処分する。そう言い切って置いて、それから直ぐ吉井藩が近傍にありましたから、吉井藩に馬を飛ばして一小隊を出させました。吉井の方は直ぐ承諾して、即刻出すと云うことになりました。それから高崎が兵を出さなければ、総督府へ上申して権田の帰りには高崎を降伏するまでやらすという積りでおりました所が、非常に謝罪して来て、是非出すから総督府への上申を待って呉れということでありました。それから直ぐ一小隊を出させまして、即夜兵糧の用意をさせて、夜掛りで権田まで行きました。ところが格別越後の兵がどうということはありませぬ。丁度未明に権田の小栗の屋敷へ行って捕縛した訳であります。格別抵抗も何もしませぬ。そこで其日に、斬ってしまった。甚だ残酷なような訳でありました。  丁度その頃の一体の事情が、断然の処分をせいとか、遅疑せずにやれとか言うのは斬れと云うことに決まっておった。  その処分をしまして高崎の旅宿まで帰って来ました。小栗を斬った時、家族の者に及ぶかどうかと云うことを小栗が聞いた。遺族にはなにもしない。女や子供は逃がしたと言いました。そうすると大層小栗は安心して斬られた。  それから高崎まで帰って来ました所が、高崎の私の門人が早馬で来まして、上野と越後の境の三国峠と云う所に会津兵が大分屯集して、こちらへ入り込んでいるようだから、上野の兵を率て直ぐに行って掃蕩《そうとう》するようにと云う命令が来ました。  それから近傍の兵を集めました。 [#ここで字下げ終わり]  ここから読み取れるのは、板垣の命令は必ずしも明確なものではないが、小栗殺害を示唆したということになる。この命令は板垣の一存なのか、もっと上層部の指示によるものか、問題はそこにある。板垣は土佐藩である。板垣の一存というよりは、薩長首脳の判断によると考えた方が自然だろう。 [#改ページ]   五 会津逃避行  権田村脱出[#「権田村脱出」はゴシック体]  小栗の悲劇は、主従の梟首にとどまらなかった。母堂や妻、養子又一の許嫁、鉞子《よきこ》にもはかり知れぬ苦難を強いることになる。  小栗はいったん亀沢に逃れたが、名主佐藤藤七の勧めによってふたたび東善寺に戻る。これが母や妻との永遠の別れになった。  女たちの会津逃避行は、権田村の村年寄中島三左衛門と娘のさい、そして銀十郎、伝三郎らの小栗歩兵のほかに複数の村人たちの献身的な手助けによって実現する。当時、主戦派の幕臣が頼るところは榎本海軍を除けば会津をおいて外になかった。  会津こそは佐幕派の牙城であり、大鳥圭介も古屋佐久左衛門も胸中には、尚武をもって鳴る東北の雄、会津藩があった。  小栗も母や妻を会津に避難させることを決断、村年寄の三左衛門に託したのである。ひたひたと薩長軍が押し寄せるなか、会津に向かうことは、困難も予想された。国境の信州は薩長軍の統制下にあり、越後にも北陸道軍が迫っている。その間隙をぬって、道なき道を会津に向かうのだ。それはつらい決断だったが、一緒に戻れば、命は危うい。それよりは生きる可能性がある。そこに賭けた。  小栗夫人たちの権田村脱出、会津逃避行について、もっとも早く触れたのは高崎の郷土史家早川桂村である。桂村は「小栗夫人の権田脱出とその後の小栗家」(大正十二年一月、『上毛及上毛人』)で、 [#この行1字下げ]「家族保護は大任なれば、我(上野介)は中島三左衛門のその任に当らんことを希望する。三左衛門身命を賭してその任に当らんことを誓い、かつ同伴者有志を選定しその夜深更(深夜)、老母鏡寿院、夫人道子、養子又一許婚の女、日下いき子の三人と有志の壮者両三名と三左衛門の娘さい子とが付き添い、山中安全の地点に隠匿したるに、はたせるかな翌六日|昧爽《まいそう》(未明)、討伐の官軍は来れり」  と脱出の模様を描いた。  この時、潜伏したのは亀沢からさらに奥に入った大反《おおそり》だった。熊笹が生い繁る峠路である。  いずれ一行に追手が迫るだろう。それからいかに逃れるか、細心の注意が必要だった。三左衛門がもっとも頼りにしたのは小栗の近習、池田伝三郎である。暴徒との一戦の際も数人を討ちとった強者だ。  生まれは信州。長じて権田村の池田民吉の養子に入り、小栗に見出されて、江戸に上った。神田の屋敷で、小栗から学問を学び、仏式歩兵操典を受けた。子供の頃、脱出ルートの須賀尾《すがお》で育ったので、この辺りの地理に明るく、人夫の手配や宿の確保などすべて伝三郎が請負った。  早川の文中にあるように上州から越後に脱出する前に、やらねばならないことがあった。主君小栗がどうなったかを確かめることである。  三左衛門が変装して三ノ倉まで戻り、小栗が無残にも梟首されたことを知った。 「なんということだ。藤七奴が」  三左衛門が名主の藤七に強い憤りを覚えたが、藤七にかかわっている時間はない。  三左衛門がひた走りに走って大反に戻ったのは六日の昼すぎであった。 「殿さまは非業の最期を」  三左衛門が重い口を開くと夫人は、 「わっ」  と泣き崩れ、立ち上がれないほどであった。母堂が涙をこらえて、夫人の肩を抱く。 「畜生っ、裏切ったな」  伝三郎がうめいた。藤七が戻れといわなければ、小栗が無残な死に方をすることもなかった。養子の又一が人質にとられており、武士として男として、戻らざるを得なかったかも知れないが、あの時の藤七の言い方は、権田村に戻りさえすれば、物事は治まるという風に聞こえた。誰しもがそう判断した。 「わしの見込み違いでございました。あの時、殿さまをお止めすれば、こんなことにならねーですんだのに」  三左衛門が母堂と夫人にわびた。 「三左衛門、そちのせいではございません。上野介が自分で決めたこと」  母堂が気丈にいった。  追手が間もなく来よう。もはやここに、じっとしていることはできない。三左衛門は即、越後にむかうことを決めた。  現在の道でいうと、どうなるのだろうか。倉渕で長く教員をつとめた小板橋良平の『小栗夫人の権田脱出路踏査記』が大変参考になる。         嶮岨な山径[#「嶮岨な山径」はゴシック体]  会津逃避行をたどった小板橋は、大正十三年に権田に近い九十九《つくも》村(現在の安中市)に生まれた。父親の仕事の関係で東京で育ち、戦後帰郷し、倉渕村で中学校の教員になった。この踏査を試みたのは、昭和三十年代の半ばからで、本格的に歩いたのは昭和四十二年から四十三年にかけてである。 「各地に小栗を知ってる人がいて、いろいろな話を聞くことができた。そんなこともあり、もう夢中で山野をかけ巡った。当時は、私が歩いた時代とは比較にならぬ山道ばかり、その苦難の旅路をおもい、時おり涙がでた」  と当時を振り返る。  この逃避行に加わった村人は誰と誰で、その数は何人なのかは、正確には分かっていない。名前も微妙に異なる。房太郎が房吉、伝三郎が伝十郎になっていたりする。  早川桂村は、中島三左衛門と娘さい子のほかに塚越房太郎、萩原五平次、塚越源忠、中沢兼吉、池田伝三郎(後の伝《つたえ》)と佐藤銀十郎、塚越富五郎と吾妻入山村の山田弥平次としている。  しかし蜷川新は倉渕村権田に残る古文書を使い、「中島三左衛門、民吉、銀十郎、福松、啓助、藤太郎、兼松、彦太郎、友吉、升吉、亀吉、竜作、定吉、三津五郎、源忠、富吉、右十六人御供にて、越後へ落ち、会津へ入籠」と記し、他の個所では女中二人、中島三左衛門、中沢兼吉、塚越富五郎、佐藤銀十郎、塚越房吉、池田伝十郎等の十六人と記している。  もう一つの文献は大坪指方《おおつぼしほう》である。『小栗上州掃苔記』『仁義併存碑ものがたり—権田に於ける小栗さん—』『小栗上野介研究資料 落穂ひろい』など、昭和二十年代初めから三十年代にかけていくつかの作品がある。  苦労したのは、前に見たように一人で何通りもの名前を持っている事で、たとえば塚越房太郎。房吉という人もおり、二郎三郎ともいったとしている。萩原五平次は桂輔のほかに啓助ともいい、中沢兼吉は亀吉、兼五郎、源忠は源吉、それらが混然となっていて、正確を期すことは難しかった。なかには敵の目をくらますために囮《おとり》で加わった人、越後で帰った人、会津まで行った人、行動もまちまちであったという。従って一人の人間が様々の名前で登場することが分かった。  このほか、各地の村人が加わり、のべ三十人余が関係したと大坪は言う。越後や会津の人を加えれば、さらに多くの人々が一行に力を貸すことになるのだが、道中、三左衛門はいつも神経を張りつめ、一日とて安眠できる日はなかった。  小栗の母堂は六十歳を越えており、夫人の道子は三十歳の半ばとはいえ妊娠七、八カ月の身重である。又一の許婚、鉞子はまだ十五、六歳、深窓育ちのお姫様である。  嶮岨《けんそ》な山径《やまみち》の逃避行は、困難を極めた。  一行が通った道は、現在の地図には書かれていない。人目を避けて、大半|獣道《けものみち》をたどっている。地図のように萩生《はぎう》峠から須賀尾峠までは全員が一緒で、伝三郎の知り合いの人々が山駕籠を用意し、夫人をかついで峠を越えている。上り下りが激しいため揺れがひどく、途中からは落葉を入れる葛籠《つづら》におさまって運ばれた。  夫人は身長五尺そこそこと小柄だったので、すっぽり納まったが、大柄の女性では、こうはいかなかった。  一行がどこに泊まったかも小板橋の調査でかなり明らかになっている。大反峰《おおそりみね》で熊笹に身を潜めていた時、にぎり飯の炊出しをくれたのは近くの一場善太郎で、小栗夫人は感謝の印として紫色のギヤマンの菓子入れを贈っている。  萩生峠を下った一行は関屋の高橋円次郎の家に泊まっている。円次郎の妻は池田伝三郎の義姉なので、母堂と夫人は安心してくつろぐことができた。夫人は円次郎に小栗が遣米使節の土産に持ち帰った椰子の実で作った容器を手渡している。  ここから一行は須賀尾峠に向かっている。ここの上原重五郎は池田伝三郎と義兄弟である。すべて人脈がものをいった。このあと一行は二手に分かれている。  道子夫人がいざという時、三左衛門の娘さいが身代わりになることになっていた。このためさいはいつも夫人に寄り添い、三左衛門と銀十郎、兼吉、源忠らが須賀尾で雇った人夫を指揮し、『小栗夫人脱出路略図』のように真っすぐ長野原に向かい、母堂と鉞子には伝三郎、房太、弥平次らが付き添い万騎《まんき》峠越えで長野原を目指した。  長野原からいよいよ草津街道である。ここも断崖絶壁を何度も越える難所で、道子夫人は必死に駕籠につかまり、赤岩《あかいわ》村に入り、広池の名主山本市兵衛(和光原《わこうばら》のヤマニから婿に来た人で本名常五郎といい、いまの舅)の家にたどり着いている。市兵衛の末裔に当たる久一さん(明治三十二年生まれ)から、小板橋は、次の話を聞いている。 [#ここから1字下げ]  小栗夫人のことは、死んだわしの祖母が生前よく話をしてくれたあネ、わしのばあさんはいま[#「いま」に傍点](実名はそね)というんだがネ、まだ赤岩から嫁に来て間もない頃、すぐそこの入口の桑原で養蚕の桑を摘んでいると、ちょうど午前十時頃、二人の若い立派なお姫様が、二人の侍にもたれかかるように、やっと歩いて来て、「市兵衛の家は何処か?」と尋ねたので、「それはわしの家です」と言って、一行を案内して家に連れ帰り、家中で昼飯を焚いて食ベさせたり、休ませたりしてやったそうだあネ。  その頃は家に馬が二頭いたんで、午後一時頃お姫様二人(小栗夫人道子と付添いの中島さい)を馬の背に乗せ、市兵衛が案内して、広池から須川の左岸を北上して鍛冶屋敷を通り、暮坂《くれさか》峠を横切り、アト坂から、世立《よたて》へ出、白砂川《しらすながわ》を渡って、和光原のヤマニの家へ送り届けてっから帰って来たっちゅう話だヨ、なんでも赤岩の人たちも、みんな桑を摘みながら、馬に乗り家来を連れて行くきれいなお姫様を見たっちゅうヨ。ああ、そうそう、一人のお姫様は腹がでかかったって、ばあさんが話していたっけ。 [#ここで字下げ終わり]  入山村[#「入山村」はゴシック体]  権田村を脱出してから五日後、小栗夫人は湯の平温泉、花敷《はなしき》温泉を通り、野反湖《のぞりこ》の麓の和光原にたどり着いている。ここは入山《いりやま》村のなかでももっとも山奥の集落で、名主の山田栄作の家に止宿している。山田家はヤマニの屋号を持つ入山村切っての豪農で、信州の秋山郷《あきやまごう》を仕切る山田一族と同族の付き合いをしており、ここから野反湖を越え、秋山郷に向かうことになる。  万騎峠を越えた母堂の一行も不眠不休で歩き、八日の夕暮にヤマニに着いている。 「道子、無事であったか」  母堂が身重の嫁をいたわり、 「お母さん」  と、夫人が母堂にとりすがる場面もあり、ヤマニ家の人々の涙を誘った。  国語辞典『大言海《だいげんかい》』の編者として知られる仙台人大槻文彦が明治十二年にこの辺りを歩き記録を残している。大槻文彦の父は仙台藩校|養賢堂《ようけんどう》頭取をつとめた大槻|磐渓《ばんけい》で、磐渓は小栗と旧知の仲であり、小栗が訪米する際、弟子の玉虫左太夫を一行に加えている。  人間は意外なところで結び付きがあるものだ。文彦は伊香保温泉から和光原に入っている。当時の村人の暮らしぶりが描かれて貴重である。 [#ここから1字下げ]  この入山村は上野国の西北の端、信濃《しなの》に界し、南北十里、東西六七里なる大村なれど、全村|深山幽谷《しんざんゆうこく》にして、北は信州より相《たがい》に越後に連《つらな》り、彼の異風に名高き越後の秋山の里もここの村の北なる野反《のぞり》の池より北に流るる川の両岸にあるなり。当村も常には他の人の入らぬ処にて異風多し。一村百七十戸八百余人、小名八カ所に分れ、多きは四十戸より少きは十戸位。皆谷間の僅《わずか》ばかりなるなだれの地に畠などを作り、処々《ところどころ》に集り住めり。白砂《しらすな》川、ここの山脈の谷々より発して南に流れ、村内の衆水《しゆうすい》をあわせて草津川に合う。  全村の山皆肥えて樹木多く、材木に伐出して下駄《げた》の甲などを多く出す。地高寒にして固《もと》より山谷あるのみ。田畠無ければ猟を業とす。熊、鹿、猪、狼あり。羚羊《かもしか》、兎、猴《さる》多し、去年の雪中に一洞穴より熊三疋|獲《と》りて、価《あたい》百円程に売れたりなどいえり。風俗の古樸奇異《こぼくきい》なるは、村中に夜具持てる者は数うるばかりにて家々の席毎に炉ありて、もとより薪に乏しからぬ地なれば、夜は衣《きぬ》着たるまま終夜、背をあぶりて臥《ふ》す。(『上毛温泉遊記』) [#ここで字下げ終わり]  江戸育ちの夫人にとって、驚きの暮らしであったろう。  客がくると村人は、 「でんじ上って、トグロ巻け」  というのがあいさつだった。  大槻文彦は、トグロは蟠座《とぐろ》、あぐらをかくことかと解したが、夫人の一行も、同じように村人たちの助けをかりて歩いたのである。ちなみに赤岩、入山村とも現在|六合《くに》村である。  妖怪変化[#「妖怪変化」はゴシック体]  会津への道ははるかに遠い。  行く手に広がる山塊をみつめ、三左衛門は身をふるわせた。 「伝三郎、ご母堂を頼む」  伝三郎がうなずき、一行は二手に分かれた。  伝三郎は須賀尾の辺りから先行して宿や人夫の手配に当たっており、一行を追っている者はいないか、また手配書が回っていないかなど確かめ、三左衛門の片腕となって働いた。  ここからはお互いの責任で乗り切ることになる。  母堂と鉞子《よきこ》はヤマニに二日滞在しただけで、伝三郎と富五郎、弥平次に守られて、大きく迂回して信州館山から越後の魚沼郡堀之内を目指し旅立った。  どこから見ても老婆と息子や孫たちの善光寺参りといった風情《ふぜい》である。  一方、夫人の方は三左衛門と娘のさい、兼五郎、小栗歩兵の銀十郎、房太郎、源忠、兼吉と和光原の弥平次を棟領に善十郎、庄蔵、権之丞(権三郎)、芳五郎、勘十郎、三郎(清作)ら地元の若者が加わり、さらに牛方《うまかた》として引沼村の七郎平、世立村の勘兵衛が動員された。  総勢二十人余りに牛二頭、山駕籠二丁も用意した。  閏四月も中旬を過ぎていた。  出発して間もなく丸塚山にかかる辺りに清水《しみず》が湧き出していて、夫人は山駕籠からおりて、うまそうに水を飲んだ。いまでもこの清水を「小栗の一杯清水《いつぱいしみず》」といい、標識も立っている。  ここから国境《くにざかい》までは深山幽谷である。いまは野反《のぞり》湖まで国道四〇五号線が通っている。きついカーブが何カ所かあるので、「これはかなりの山径だなー」と分かるが、かつての姿を思い浮かべることは難しい。  しかし、地図を広げて、この辺りの標高を見れば、いかに高所であるかは、一目瞭然である。湖は一五一四メートル、右に見える八間山は一九三五メートル、信越国境にそびえる佐武流《さぶる》山は二一九一メートル、左前方の岩菅《いわすげ》山は二二九五メートルもある。  夫人たちが越えた信越国境の山塊が、いかに深山であるか分かるだろう。  この国境越えはいまも車道はなく、途中からダム建設のためのトロッコ道があるだけである。それを使っても秋山郷までたっぷり七、八時間はかかる。小栗夫人の頃は獣道しかなかったので、途中、野宿を重ねながら歩いたことになる。  幕末、この辺りを信州松代藩士佐久間|象山《しようざん》が歩いている。 [#この行1字下げ] 和光原という所にて暫く休み、山に登る事三里ばかりにして、嶺頭《みねがしら》に至る。右に続いて山に赤き崩れあり、状烏賊《かたちいか》を倒したるがごとし。故に土人この処をいか岩というとぞ。それよりやや下れば、地勢平かにして中に大なる池あり、布池《ぬのいけ》とも又のとりの池ともいう。(『沓野日記』)  象山はこのように書いている。象山は蘭学者として知られるが、地質学にも造詣が深く、黒色火薬の原料となる硝石や硫黄を探すため訪れたのである。  この頃、野反湖は、「布池」とか「のとりの池」と呼ばれ、周囲一里ほど山塊に囲まれた池であった。昭和三十一年に東京電力の野反ダムが完成し、周囲四里の野反湖が誕生している。  象山は野反湖の畔で昼食をとり、鉱物の探査と池の水がどう流れて行くのか調べるためさらに奥へ足を踏み入れている。象山の文章は続く。 [#ここから1字下げ]  山々|嶮岨《けんそ》にして、上る時は前者の脚と後者の面《かお》と相去る事わずかに尺ばかり、その険おもうべき也。  山辺渓《やまべたに》(谷のほとり)殊に急湍《きゆうたん》(はやせ)多し。渓《たに》を隔てて一つの瀑布《ばくふ》あり。高さ数十丈はなはだ高くして水続かざれば、なかば水霧となりて下る。  奇観なり。  数たび岩を攀《よ》ぢ、倒れたる木の下をくぐりなどして、暮に及んで岩魚《いわな》捕うるものの休息する小屋を得てそこに止まる。主従四人はこの小屋に入りて休息す。外のものどもはその傍の木かげに今宵は雨も降るまじとて打寄りて睡《ねむ》るもあり、また着るもの薄くして寒しとて、火を焼き背腰などあぶるもありき。 [#ここで字下げ終わり]  夫人たちの旅路がいかに苛酷なものであったか、ここから想像することができるであろう。  小栗夫人の一行が、信越国境の難所を越えた様子を伝える記録はない。しかし小板橋の聞き取り調査により、これもある程度のことは分かっている。道案内は山田弥平次を先導とする和光原の村人だが、弥平次が二十四歳、善十郎二十六歳、庄蔵二十一歳、勘十郎十七歳、三郎十七歳と血気盛んの若者だった。一人芳五郎は四十五歳で、ここを何度も越えている猟師である。  山中の大蔵峠の峰付近で、金を少しはずませようとしたのか、 「ここから帰らせてもらう」  と帰るふりをしたところ、 「なんだと」  佐藤銀十郎がやおら刀を抜いた。 「おらあ、あんなおっかねえ思いをしたのは初めてだ」  芳五郎が後で述懐したという。  これからどんな出費があるか分からないので、三左衛門は財布のひもを固くしめて道を急いだ。  小栗夫人はつわりもひどく、気もいらいらしていたようで、 「まだ秋山に着かぬか」  と日に何度もいった。  秋山までは何泊も重ねなければ、たどり着かない。 「はあ、じきでがんす」 「ならば間もなく着くのか」 「なあに、じきでがんす」  そんな問答がくり返された。  しまいには夫人が怒って、 「お前らのいうことは、うそばかりです。この妖怪変化《ようかいへんげ》め」  と懐剣を抜いて切り付けようとして、三左衛門に止められる一幕もあった。  一日目は五里ほど歩いて大倉平のお助け小屋に一泊、翌日は三里弱歩いて和山《わやま》温泉に二泊している。ここからは道もあるので村人の大半は帰り、一行は秋山郷に無事たどり着くのである。  小栗夫人が「まだ着かないのか」と一日に何度もいったのは、辺りは想像を絶する深山で、文字どおり妖怪変化が出没しそうな薄気味悪さのせいだった。  文化の頃、『北越雪譜《ほくえつせつぷ》』の著者、鈴木|牧之《ぼくし》が信州秋山郷に旅していた。その時の記録『秋山紀行』に「鬼も住むべき寂寞《せきばく》たる幽谷」と次のように書き残している。 [#ここから1字下げ]  そこは樫《かし》、楢《なら》など大樹が生い茂り、無論、道などなく、川伝いに歩く時は、右、左と浅瀬を渡り、石を飛び越え、踏み外そうものなら白浪渦巻く水底に転落する事は必定だった。狼がいたるところにいて、朝起きると近くに無数の足跡があった。  山の頂上には祠《ほこら》があり、その辺りは幾抱《いくかかえ》もある大樹が麻の如く生い繁り、近くにこれより燕滝というのがある。ここ噺《はなし》にも絵にも及ばぬ奇景で、大岩の真中より漲《みなぎ》り落つる滝壺の淵は、藍色《あいいろ》で、底は千尋《せんじよう》ともいうべき深さだ。その左右ともに千仞《せんひろ》ともいうべき大巌覆いかかり、その岩に何程という数知れぬ山《やま》乙鳥《つばめ》、夥《はなはだ》しく巣を構え、風景口には演《の》べがたい。 [#ここで字下げ終わり]  というのである。ここを夫人たちは、三日がかりで越えた。 [#改ページ]   六 越後路  義理と人情[#「義理と人情」はゴシック体]  一行は深山幽谷を越えて秋成《あきなり》にたどり着いた。現在の新潟県|中魚沼郡津南町《なかうおぬまぐんつなんまち》である。  ここの反里口《そりぐち》に弥平次と付き合いのある根津|仁右衛門《じんうえもん》がいた。仁右衛門はこの辺りの顔役で、義侠心に富み、一行に何かと援助を惜しまなかった。  ここでも顔のつながりがものをいった。  ここに通称「茶屋」と呼ばれる居酒屋もあった。ここを営む藤五郎夫婦も弥平次の知り合いで、その弟に草津までの駄賃付け渡世をしていた伊助がいた。 「伊助、十日町まで行ってくれろ」  藤五郎からいわれて、伊助が牛車を引いた。  十日町に行くと薩長の息がかかった縮《ちぢみ》商人が多数入り込んでいる。ここは危ないので、隣りの中条《なかじよう》村(十日町《とおかまち》市)に泊ることにした。中条村には仁右衛門の親類である岡田寛蔵がいた。本家はここの庄屋をつとめた家柄である。末裔《まつえい》に新潟県知事をつとめた正平がいる。夫人たちはここに三日滞在している。次第に路銀がとぼしくなり、しかも前途はなお道遠しである。  新潟に行けば、なんとかなるという気はあった。小栗の父|忠高《ただたか》は安政元年閏七月、新潟奉行を命ぜられ、ここに赴任していたからである。忠高は在職わずかに十カ月、四十七歳で病死しており、新潟の法音寺に葬られていた。  母堂にとっては懐かしい土地である。かつて忠高の下で検断の職にあった藤井家に五十両の供養料を委託しており、藤井家が何かと面倒を見てくれるはずであった。その母堂たちとは、次の堀之内村で落ち合うことになっており、間もなく感激の再会をするはずだった。 「待てよ」  ここで三左衛門は思案にくれた。  たしかに新潟に行けば藤井家もあり、頼る会津藩の御役人もいるであろう。 「ここに頼れ」  と小栗がいい残した会津藩のご重役横山|主税《ちから》のご家来衆も来ているかも知れない。だが、最悪の場合を考えることも大事だ。藤井家に預けた五十両もかなり目減りをしておろうし、薩長の官軍がもうそこまで来ているというし、やはりここは、自分で金を都合しなければならない。三左衛門は考えた。  三左衛門は房太郎と兼吉を呼び、 「これより会津へめえるが、世を忍ぶ道中だ。金もかかる、しかるに金が底をつき、とても足りねえ。いいか、権田に帰って、金集めてこい。おたおたしねーで行け。おれはここで待っておる」  房太郎と兼吉は翌朝、大割野《おおわりの》までもと来た道を戻り、ここから現在の国道一一七号線ぞいの平地に入り、東大滝、七ケ巻を経て野沢温泉の麓を抜け、志賀高原ぞいの土橋、中須賀を越え、夜半に湯田中|渋《しぶ》温泉までたどりついている。  約二十里を一日で歩き切ったのだ。ここから白根山の山田峠を越せばもう草津である。  さすが山径に慣れた屈指の若者たちであった。ところが、二人は、おもわぬことにぶつかった。草津街道で松代《まつしろ》藩士の検問を受けたのである。 「善光寺詣りの帰りでござんす」  必死にいい逃れようとしたが、疲れ切った表情や見すぼらしい身なり、ふところに金がないなどで挙動不審者とみなされ、ここで三日間も拘留されてしまった。  小板橋の追跡調査によると、房太郎と兼吉のほかにもう一人いたらしく、松代藩兵にとがめられた時、「おれは小栗の家来だ」といったようだという。三日も拘留されたということはそうした理由があったためかも知れない。房太郎らはこのあと釈放されて権田村に戻り、名主の佐藤藤七らに事情を話したが、結局、金は集まらず、いたずらに十数日を権田で過ごしている。 「なんてことだ。奥さまのために、金をだす奴がいねえとは。義理も人情も消えちまった」  房太郎らは、越後への道は薩長の手に落ちたと判断し、下野《しもつけ》の今市《いまいち》に向かい、ここから日光街道を会津若松に向かっている。どうしても奥さまのもとに戻りたい、房太郎らは不眠不休で歩き続けた。  真彦母と娘の死[#「真彦母と娘の死」はゴシック体]  二人がふたたび会津若松を目指したのは、夫人たちを守るという使命感だったが、もう一つ、腸が煮えくり返るような、いたましい知らせを聞いたことも、二人を会津へ向かわせた。 「こんなひでえことがあるもんか」  房太郎は、何度も目頭をこすった。上野介の養子又一とともに高崎で斬られた用人塚本|真彦《まひこ》の母親ミツと七歳の娘チカが自決し、夫人と他の子供三人は行方知れずになっていたのである。  塚本の家族もあの日、民家で息をひそめていた。母親のミツと夫人、子供四人だった。  真彦斬首の悲報を聞くと母親と夫人は手をとり合って泣き崩れた。これからどうするか、周りの人々も目をそむける気の毒な光景だった。  母親のミツは、 「遠縁に当たる者が七日市藩におる故、私どもはそこへ」  と、七日市に逃れることを申し出た。  追手は迫っているし、誰も真彦の家族までは面倒見る人はおらず、家族だけで逃避行となった。  七日市藩は、現在の群馬県富岡市にあった。権田村からだと、妙義山《みようぎさん》麓の松井田《まついだ》を抜け、中山道の磯部から入るか、あるいは松井田から間道を進むかである。  いまの道なりにいけば十里ほどだが、権田を出るとすぐ険しい地蔵峠があり、女子供の足では、どんなに急いでも二日ないし三日はかかる距離だった。 「皆で行けば目立つので、二手に分かれましょう」  母親のミツがいい、ミツが真彦の長女チカの手を引き、別の間道を夫人が乳呑み子の長男を背中に、下の娘二人の手を引いて、着の身、着のまま出立した。  小栗主従はもとより関係者はすべて引っ捕らえ、厳罰に処するとの風説しきりである。真彦の家族はばらばらになって、山に入った。  母親のミツは烏川を渡って岩氷《いわこおり》村に出て、山道に入り地蔵峠を越えようとしたが、大平の東|沢山《さわやま》付近で道に迷い、動きがとれなくなった。  家族全員が一緒ならお互いに励まし合って、なんとか道を捜すこともできたのだが、疲労と焦りに空腹も加わり、身動きがつかなくなった。  そこへ一人の農夫が通りかかった。  ミツは必死に助けを求めた。  農夫は峠を下った中尾村の下田喜十郎で、 「娘っ子が腹減らしているようだ。弁当など用意してくるから待っていておくんなさい」  とミツにいい、中尾に引き返した。そこから中尾までは一里半ある。ひどい悪路で、大人でも戻ってくるにはゆうに三時間はかかる。それからしばらくたって、喜十郎がその場に戻った時、二人は冷たくなっていた。懐剣で喉を突いていたのである。  なぜ母親のミツは喉を突いたのか。喜十郎がなかなか戻って来ない。小栗の関係者と見て、三ノ倉の官軍屯所に密告したのではないか。ミツが喜十郎を疑い、命を絶ったのではないかと見られた。  驚いた喜十郎は村の名主下平家に通報、七日市藩にも知らせの者が走ったという。七日市藩ではなく甘楽《かんら》郡甘楽町の小幡藩という記述もあるが、ともかくもミツは七日市まではとてもたどり着けないと、自刃して果てたのである。  夫人と三人の子供はどうなったのか。これについては当時、行方知れずとされたが、松井田の武井家に「小栗夫人を泊めた」という話が伝わっていて、それが真彦夫人であることが分かったのは、しばらく後のことである。  武井家に赤子を背負った妙齢の婦人が現われ「女の子二人が途中で動けなくなり、涙を呑んで相間《あいま》川の底に沈めた」といって、呆然と立ち尽くしたという。  武井家では母子を泊め、相間川に行くと二人の女の子が息絶えており、痛ましさに目をそむけた。翌日の夜、主人の荒次郎と近所の中山謙吉が付き添って七日市の前田家隠居屋敷に夫人を送り届けている。その後、夫人と幼い長男はどうなったのか、それはいまなお分かっていない。  林業を営む市川平治倉渕村議の案内で、私も母親ミツの自決の場所と夫人が娘二人を沈めた相間川を尋ねた。自決の場所は地蔵峠から尾根づたいに西にのびる国有林の深い谷底で、主要地方道渋川—松井田線の営林署林道の入り口に、小栗上野介顕彰会が建てた殉難碑があった。 [#ここから1字下げ]  殉難碑 勘定奉行小栗忠順家臣塚本真彦の母ミツ 娘チカ(八歳)この地に近き谷合に殉難す  両女は慶応四年閏四月六日、権田村における西軍暴挙の難を避け、七日市藩へ逃れる為地蔵峠を目ざしたるも、山中に道を失い遂に力尽き、同八日この地に近き谷間において自害せり、遠く悲しき歴史に想いを馳せ、この地に記念碑を建て永くその霊を悼む。     昭和五十七年四月 [#ここで字下げ終わり]  とあった。  二人の娘が殉難した相間川も深い山中にあった。平成五年十二月に川のほとりに、これも顕彰会の手で供養の「姉妹観音像」が建てられていた。  像は柔和な見事な造りで、「光線の具合だったのでしょうか、ここで開眼がすんだ時、像がにこやかに笑ったように見え、えっとおもわず声を出しました。たしかにそう見えたのです」  市川は、感無量の面持ちで語った。  堀之内[#「堀之内」はゴシック体]  房太郎と兼吉がいくらまっても戻って来ないため三左衛門は二十二日夜半に中条村を出立、堀之内村に向かった。現在の新潟県|魚沼《うおぬま》市である。  堀之内村には池田伝三郎が付き添い、小栗の母堂と又一の許嫁|鉞子《よきこ》がすでに到着しており、そのことは三左衛門の耳に入っていた。  堀之内村は中条の北東五里ほどにあり、魚野川をはさんで会津藩の預り地|小出島《こいでじま》と向かい合っている。 「ここまで来ればひと安心」  三左衛門の胸に安堵感があった。  堀之内村は三国《みくに》街道の宿場町で越後縮の集散地である。小出島はいまの魚沼市で、ここから入広瀬《いりひろせ》村に向かい、六十里峠を越せば、会津領|只見《ただみ》である。しかし、この峠は難所で越えることは難しい。  三左衛門は、会津の山塊に目をやり、ここまで来たことを部下たちに感謝した。  母堂の一行は堀之内のどこに宿泊していたかは、はっきりしない。当時、堀之内村は百二十戸ほどの小さな村で、浜田屋八兵衛の旅籠が一軒あるだけだった。恐らくここに宿泊していたのではないだろうか。  小栗夫人と母堂は、入山村で別れて以来、十日ぶりほどの再会であった。涙がぼろぼろ流れ、言葉にならず、ただ手を取り合ってむせび泣くだけだった。  蜷川新は母(小栗夫人妹)を通じて当時のことを聞いている。 [#この行1字下げ] 余は幼時、これを母より聞けるに、小栗上野介夫人は後年に至りても「当時の悲憤とその困阨《こんやく》せる事情とは聞いてくれるな」といわれたとの事であった。その危急困阨、察すべきである。余が聞ける所及び人の著書等によれば、当時夫人は、その身の危険を慮《おもんばか》り、その身を草刈り籠の中に潜め、その頭上に藁を覆い、村の一農民をしてこれを背負わしめ、母子|二途《ふたみち》に分れ、斯《か》くして辛うじて官軍方追手の難を免れ、山に伏し、谷に眠り、千辛万苦《せんしんばんく》して、辛うじて越後に逸《のが》れたとのことである。悲哀の極《きわみ》である。  言葉ではいい表せない、せつない想いが小栗家の女たちの脳裏に去来し、しばし目を真っ赤にして涙にくれたのであった。しかし、ここも安全ではなかった。  三国峠を破った薩長軍先鋒は小出島を目ざし進軍しており、堀之内にも刻一刻、危機が迫っていた。  この前後に、佐藤銀十郎、塚越富五郎、佐藤福松らが会津藩郡奉行町野|主水《もんど》隊に加わり、参戦している。 「殿さまの仇討ちだ」  銀十郎らは鉄砲を握りしめて戦場に向かった。三国峠でも戦ったという説もあるが、銀十郎は小栗夫人を守り、富五郎は母堂と鉞子を守って別々の道をたどって堀之内に来ており、再会したあと、参戦を決めたのではないだろうか。  この辺りは推測の域を出ないが、路銀も底をつき、また小栗歩兵ということで、会津藩から勧誘があったことも考えられる。  推測では二十四日夕刻、小栗夫人と母堂の一行が堀之内を離れ、難所の六十里峠を避け、一路新潟に向かっている。新潟では藤井家に立ち寄り、なんとか金子を調達するとともに法音寺に詣で、夫である小栗|忠高《ただたか》公の墓参をはたしたいとする母堂邦子のたっての願いもあった。新潟までは越後平野を二十里の道程である。  信濃川を舟で下れば、早いのだが、万が一を考えて、ここも間道を歩き続けた。このあたりから一行の足どりは明らかではなく、いつ法音寺に着き、はたして路銀をいくら手にすることができたかも、まったく分からない。  法音寺は新潟市西堀通にある曹洞宗の名刹である。かつての新潟奉行所はこの近くにあり、忠高は安政元年閏四月、三代目の新潟奉行に任ぜられ、この地を踏んだ。在職期間わずかに十カ月、江戸に帰ることなく、この地で永眠していた。母堂邦子にとって、墓参りをせずに会津若松に行くことは、とてもできぬことであり、また小栗夫人にも、夫小栗の供養をここでしなければという強い願いがあった。  住職がねんごろに読経し、忠高公と小栗の供養を行なったと伝えられている。  一行が新潟に入った頃、薩長軍先鋒は小出島を急襲した。  小出島の会津藩郡奉行町野主水が農兵を動員し防戦につとめたが、圧倒的優勢の敵先鋒にたちまち躁躙《じゆうりん》された。 『会津戊辰戦史』によると、戦闘は閏四月二十七日にあり、庁舎及び市街、ことごとく兵燹《へいか》に罹《かか》り、村長《むらおさ》、村吏《そんり》、僧侶、婦女、皆死力を尽して戦ったが敗れている。薩長軍進入するや捜索すこぶる厳で、村の有力者はあるいは縛に就き、あるいは殴殺されたという。  小栗夫人の一行は危うく難を逃れたことになる。母堂が新潟の藤井家から得た路銀はごく僅かであったろう。もともと預けた供養費が五十両であり、そこから察しても五両か十両に過ぎなかったのではないか。新潟に回ったのは、あくまで忠高公の墓参りと小栗の供養にあったとも考えるべきだろう。  佐藤銀十郎らが参戦したことで、新潟の会津藩陣屋には小栗夫人一行のことが、知らされていたと見てよい。一行はここから陰に陽に会津藩の庇護を受けることになる。  新潟の情勢[#「新潟の情勢」はゴシック体]  小栗夫人一行が目ざす会津若松は、風雲急を告げていたが、長岡に河井継之助がいて、にらみを効かせており、まだゆとりはあった。  この時期の新潟周辺における会津藩の動きはどのようなものであったか。会津藩の越後方面の総督は家老|一瀬《いちのせ》要人《かなめ》で、新潟の酒屋《さかや》に陣屋、水原《すいばら》に軍議所をおき、柴太一郎、柳田新助が参謀として詰め、佐川官兵衛の朱雀四番士中隊を筆頭に、同二番寄合隊、同四番足軽隊、青竜三番士中隊、同二番足軽隊、第二砲兵隊、町野隊、新遊撃隊、結義隊、さらに旧幕府の衝鋒隊、水戸脱逃隊など約千二百が布陣していた。  小出島が破れたことで、主力の佐川隊はすでに小千谷《おぢや》方面に向かっており水原の軍議所では、奥羽列藩同盟への加入を越後の諸藩に強く働きかけていた。  会津藩は新潟港から武器、弾薬を仕入れており、越後は死守しなければならない生命線であった。この時期、長岡藩はまだ奥羽諸藩と同盟を結んでおらず、会津藩の水原軍議所は、檄《げき》を越後の諸藩に飛ばして参集を促し、極力、奥羽との同盟を画策していた。長岡藩に慎重論があると聞くや、「かくも行動|曖昧《あいまい》なるにおいては一挙に之を屠《ほふ》るべし」とさえ激語するに至り、「それほど長岡城がほしくば、勝手にお取りなさい、会津や桑名の腕前なら、朝飯前の仕事でしょう」と河井継之助が、断然これを斥けたこともある。  新潟は幕府直轄地だったこともあり、会津がこれを抑え、幕臣古屋佐久左衛門の歩兵が三々五々隊をなし、抜槍、抜剣、市中を横行していた。  継之助が一度、新潟に行き、馬上より「何を騒ぐ」と一喝した話は有名だが、閏四月の時期の新潟は旧幕府衝鋒隊及び会津藩兵の支配下にあった。新潟港の賑わいも大変なもので、港には外国の商船が入り、武器、弾薬の荷揚げに余念がなかった。  表面の現象を見ると、継之助は会津と一線を画しているように見えるが、実は違っていた。継之助は、三月三日に、江戸を引き払うに際し、品川沖の武器商人シュネルの持ち船に機関砲など大量の兵器を積み新潟に着船していた。シュネルにはエドワードとヘンリーの二人の兄弟がいて、兄のヘンリーは会津藩の軍事顧問に就いており、会津と長岡の間に密約が進行していたのである。  弟のエドワードは武器商人で、以後、新潟港を舞台に、列藩同盟に武器弾薬を売り込むことになる。  新潟は幕府がアメリカその他との間に締結した修好通商条約によって神奈川、長崎、箱館、兵庫とともに開港場に指定され、安政六年(一八五九)から貿易が開始されることになっていたが、政変で遅れていた。  そこで会津藩は仙台、米沢、庄内等へ働きかけ、新潟を奥羽越の貿易港にしたのである。シュネルの船はどんと新潟の港に停泊し、小栗夫人たちは日の出の勢いの会津藩陣屋にたどり着くことになる。  小栗が会津藩公用方の重臣に何度か会ったことは前に記した。その一人、秋月悌次郎は新潟にいた。秋月は会津藩主松平|容保《かたもり》が京都守護職の任にあった時、薩摩との間で会津、薩摩同盟を結び、長州を京都から一掃するクーデターを断行した人物で、会津に秋月ありといわれた参謀である。  秋月は幕府勘定奉行として敏腕を振るった小栗を高く評価しており、会津若松に迎え、奥羽のために力を発揮してほしいと懇請していた。  一行は秋月を訪ね、事の顛末を説明し、援助を求めたに違いない。  早川桂村は会津国境に近い水原の会津藩軍議所に伝三郎が出向き、秋月に会ったとしたが、秋月は新潟によく出かけており、旧新潟奉行所辺りで会うことができたことも考えられる。  奥羽越列藩同盟が成立し、新潟に仙台、米沢、庄内などの重臣も姿を見せるようになるのは六月頃からである。小栗夫人が訪れた頃と若干のずれはあるが、シュネル弟は港に近い勝楽寺を宿舎とし、日々、奥羽諸藩の重臣を招き武器の売り込みに余念がなかった。  米沢藩士長尾景貞の日記に、その模様が記されている。  勝楽寺には赤、白、青の行灯《あんどん》が百個ほど下げられ、座敷に入ると、入り口に異人がいて「互いに手をおさえ」会釈した。握手のことである。二十畳ほどの広い座敷の中央には幅一間、長さ三間ほどの台があって、その上にビールや果物、大皿や真鍮や銀の包丁や熊手(フォーク)があった。席につくと、鳥肉か獣肉か定かではなかったが、肉がでた。日本酒もふんだんに振る舞われ、鯛《たい》やうなぎ、鮭、かれい、鯖《さば》や貝類など山海の珍味が出て皆、腹は太鼓のようになり、「のどを通る物とては、只々|水瓜《すいか》ばかりに御座候」といった有様だった。  戦争景気である。  新潟港はもともと佐幕である。薩長が勝つなど夢にもおもわず、町は華やいでおり、小栗夫人の一行も初めて生きた心地を味わい町も見物し、明日からの暮らしに、幾分かの夢を抱いたに違いない。しかし、一歩、新潟を出ると、いたるところに危険もあった。早川桂村は次のように記述している。 [#ここから1字下げ]  この地は先代小栗又一忠高、新潟奉行として在任せる地なれば、その知人も多く、一行は安心して滞在数日、時機をみてまさに会津に赴《ゆ》かんとす。しかるに一面には又、小栗家の家族等なりと知り、危害を加えんとする者ありとの風説を耳にし、急遽、数日の糧食を準備し、夜陰《やいん》、潜かに出発し、本通りを避け、間道に入り渓流にそいて奔迯《ほんとう》し、昼間は樹陰に、あるいは荊棘《けいきよく》(いばら)裏に潜伏し、夜間、嶮岨《けんそ》を冒《おか》して走ること三日、名状すべからざる辛苦《しんく》を嘗《な》め、ようやく蒲原郡|水原《すいばら》村の陣屋に達したり。小栗夫人が草刈籠に入りて背負われたりというはこの時の事なり。  一説には当時越後には諸藩の佐幕党多数脱走し来り、官軍に抵抗せんと隊伍を組んで集屯《しゆうとん》せり。故に小栗の家族一行に同情し、出来得る限り便宜を与え、安全に水原の陣屋に至らしめたりと云えるが、何れが真なるか詳《つまびら》かならず。…… [#ここで字下げ終わり]  桂村は、二つの見方を記述しているが当時、新潟から水原までは会津藩の支配下にあり、治安は保たれていた。そうはいっても戦時下である。敵の間者もいよう。本道を避け、間道を通ることもあったろうが、渓流にそったり、樹陰に、あるいは荊棘の裏に潜んで、三日もかかったというのは距離的に言って客観性にとぼしいようにおもう。ちなみに、新潟市の中心部と水原間は約五里、一日の距離である。         したがって「できる限り便宜を与え、安全に水原の陣屋に至らしめた」とする後者の方が現実に近いとおもわれる。 [#改ページ]   七 会津戦争  横山の死[#「横山の死」はゴシック体]  水原《すいばら》から会津若松までは、阿賀野《あがの》川ぞいに一直線である。会津本庁にも小栗夫人一行のことは通報され、希望どおり会津藩若年寄横山|主税《ちから》宅を宿舎に当てることを決めていた。  横山は幼名を常守《つねもり》といい、慶応三年(一八六七)正月、将軍徳川慶喜の実弟、徳川民部のヨーロッパ訪問に随行し、約半年間、ヨーロッパを見てきた国際派である。この頃、小栗は横須賀製鉄所の建設、軍艦、大砲等の購入、近代式軍隊育成のための軍事顧問団の招聘、横浜仏語伝習所の開設などを矢つぎ早やに決め、パリ万国博へも出展するなどフランスとの関係強化に当たっていた。  横山は渡航に当たり、小栗を尋ねて挨拶し、何かと指導を受けていたのである。  会津藩は最大級の扱いで小栗夫人一行を迎え入れた。  小栗夫人の一行が、いつ会津に着いたのかは、はっきりしない。早川桂村は会津藩から提供された駕籠《かご》三挺に乗り、越後街道を下り、津川《つがわ》、野沢《のざわ》、坂下《ばんげ》宿で休息しながら閏四月末に会津に着いたとしている。  いったん城下の紙問屋|湊屋《みなとや》善兵衛方に落着き、その後、横山家に移っている。  なぜ、真っすぐ横山家に入らず、紙問屋に逗留したのか。これは微妙な問題を含んでいる。一行が閏四月末に到着したとすれば主税が白河口の会津藩軍事副総督として出征中か、出征直前であり、仮に到着が五月にずれ込んだ場合、戦死という思わぬ悲劇にぶつかったことも考えられる。  横山主税が、白河の戦線に姿を見せるのは、閏四月二十六日である。  この日、「我が軍の総督西郷|頼母《たのも》、副総督横山主税|勢至堂《せいしどう》峠に在り」と『会津戊辰戦史』にある。勢至堂峠は猪苗代湖南岸を回り、白河に通じる峠である。ここに二十六日いたということは、少なくともそれ以前に会津若松を発ったことになる。  出征の前後は混雑を極めており、そのために小栗夫人一行がいったん紙問屋に入った公算が高い。  白河の戦いは五月一日に始まっている。  白河口を守っていたのは会津と仙台の連合軍で、兵力はゆうに二千を越え、白河の関から官賊を一兵も入れないと豪語した。にもかかわらずわずか七百余の敵に壊滅的な惨敗を喫する。 [#この行1字下げ] 副総督横山主税自ら采配を振って衆を励し、稲荷山に登るや、たちまち弾丸にあたりて斃《たお》る。戦い猛烈にして遺骸を収むるに遑《いとま》あらず。従者板倉和泉、纔《わずか》に首を馘《かく》して退く。(『会津戊辰戦史』)  横山主税戦死の模様である。パリで撮影した横山の写真が残っている。理知的な表情の青年である。  横山の首は従者によって会津若松に運ばれ、主君容保も参列してしめやかに法要が営まれた。享年二十二であった。若い夫人と二歳の子が残され、小栗夫人にとっても、これは胸の痛むことであった。鳥羽伏見以来、どの家にも戦死者や怪我人がいて、このあとどうなるのか、重苦しい空気が城下にただよっており、会津も決して安全ではなくなっていたのである。  横山家は会津鶴ヶ城の西出丸に面し、家老・梶原平馬の家と隣り合わせていた。五層の天守閣が目の前にそびえ、江戸からも医師や火消しなど何人も来ていて、江戸育ちの小栗夫人も時おりこれらの人々と江戸弁で話す機会もあった。しかし主人のいない横山家は淋しく、出産のこともあって、間もなく南原《みなみはら》の病院に移ることになる。  クニ子誕生[#「クニ子誕生」はゴシック体]  早川桂村はこの辺りを次のように記述している。 [#ここから1字下げ]  横山主税の邸宅に移り、楽しからざる日を送るうち、諸道の戦争利あらずして、官軍城下に迫るの報あり。皆三の丸に籠城を決し入城したるが、幾許もなく評議また一変し、婦女子は出城し、随意居住を定むべき命を受け、一行一団となり城外に出たるも、地理は知らず、知己はあらず。  ために困憊《こんぱい》はなはだしく、民家に入り、僅かに雨露を凌《しの》ぎつつ在《あ》りしに、石沢《ママ》頼母(西郷頼母)氏の尽力にて、南原なる病院付を命ぜられたるが、その実は安住の所を与えられたるなり。  夫人道子はここにて女子分娩し、幸いに母子ともに健全なりしため、一同小栗家の血統の絶えざるを喜び、その子をクニ子と命名し、掌中《しようちゆう》の玉《たま》として保育に努めたり。 [#ここで字下げ終わり]  このようにあるが、小栗夫人の出産は六月十四日(戸籍は六月十日)で、籠城以前である。したがって早川の記述は事実誤認の可能性が高い。夫人が女子を分娩した南原病院は現在の会津若松市大戸町|上三寄《かみみより》にあった。田島へ向かう会津西街道の集落の一つで会津鶴ヶ城までは二里である。病院の規模は不明だが、恐らく民家や寺院に怪我人を収容していたのであろう。小栗夫人はここでクニ子を生み、育てたことになる。遺児はクニ、国子の記述もある。 「可愛いこと」  母堂が孫をあやす姿も見られ、一家に笑いが絶えなかった。  しかし、八月二十三日、会津城下に敵が侵入すると、一家の暮らしも激変する。戦いは一カ月にも及び、南原も戦場になった。  しかし病院は会津兵のガードが固く会津藩の『戊辰殉難者名簿』に南原病院で戦病死した兵士の名前が何人か記載されている。九月十一日付けの戦死者もあり、南原病院は会津軍の手で確保されていたことを示している。  一方、権田村から付き添って来た小栗歩兵だが、銀十郎らは越後で会津軍に加わり、戦場に出ており、白河の戦いに加わった者もいたりして、夫人のそばにいたのは三左衛門と娘のさい、権田村から今市経由で会津若松にたどり着いた房太郎、兼吉の四人のようで、戦いに加わった小栗歩兵も時折、南原病院に顔を見せたかもしれない。  富五郎戦死[#「富五郎戦死」はゴシック体]  九月早々、塚越富五郎戦死の知らせがもたらされた。  戦場に出れば、もとより死は覚悟の上である。いつかこうしたこともあると覚悟をしていたものの、現実に死者が出ると、その悲しさはたとえようもないものだった。  富五郎は、佐藤銀十郎、佐藤福松とともに会津藩の最精鋭部隊朱雀四番士中隊付属隊に属していた。  八月三十日、越後口の一竿《ひとさお》(喜多方市高郷町)に布陣した付属隊は対岸の敵と銃撃戦になった。『会津戊辰戦史』に小栗歩兵の活躍の模様が記されている。 [#ここから1字下げ]  朱雀四番士中隊付属隊は一竿《ひとさお》の渡頭を守る。隊兵塚越富吉は前岸の西兵が弾薬を運搬するを見て銃撃したれば、西兵狼狽して走る。  須臾《しゆゆ》(しばらく)にして数十人の敵兵来りて射撃し我が兵応戦す。偶々《たまたま》飛弾富吉の胸を貫きて死す。富吉は徳川氏の世臣(功労者)小栗上野介忠順の臣なり。上野介の死後、富吉は佐藤福吉、佐藤銀次郎と共に去って会津に投ぜんとす。時に町野|主水《もんど》、越後魚沼郡浅貝駅にあり、富吉等従いてこれに属し、曩《さき》に三国峠、小出島《こいでじま》に戦い、一ノ木戸に来り付属隊に加わる。富吉が妻は上野介の妻に従い会津に至り横山主税の家に寓《ぐう》せりと云う。 [#ここで字下げ終わり]  富吉は富五郎、銀次郎は銀十郎、福吉は福松の事であろう。富五郎は射撃の名手銀十郎の指導で小銃の扱いに慣れており、権田村の騒動の際、川浦村の鉄砲打原田銀八を討ち取っていた。その度胸が買われ、初め町野隊に所属し、のちに朱雀四番士中隊の付属隊で兵として扱われ、活躍していた。  戦死した付近に墓石は見つかっておらず、富五郎がどこに眠っているのか分からないが、弱冠二十二、三歳、人生これからの富五郎だったが、故郷の権田村に戻ることなく、会津の土となった。  銀十郎無念[#「銀十郎無念」はゴシック体]  戦いを続ける銀十郎は『小栗日記』に「感服の銃手にこれあり候」と記された射撃の名手であった。  江戸でフランス式歩兵訓練をうけた小栗歩兵の精鋭である。  銀十郎は朱雀四番士中隊町野隊付属誠志隊に所属し、富五郎の戦死後、八月下旬、熊倉《くまくら》に転陣している。現在の喜多方市熊倉である。  その頃、会津城は完全に敵に包囲され、会津城下の戦いは悲惨を極めていた。『会津戊辰戦史』は血を吐くおもいでその模様を記している。 [#ここから1字下げ]  この日(八月二十九日)我が軍の進撃するや将士、皆決死して、必ず寇敵《あだてき》(外敵)の掃滅《そうめつ》を期し、誓って生還を思わず。ただ銃|乏《とぼ》しきため多くは槍を執《と》って敵中を馳突《ちとつ》(突進)し、飛丸《ひだん》のために斃《たお》るる者|累々《るいるい》たり。死者実に百七十名に及び傷者またこれに準ず。  戦終るの後、敵軍我が屍体を検せしに皆法号及び「慶応四辰年八月二十九日戦死」と記したる紙片を所持せりという。この事|往々《おうおう》西軍諸戦記の記する所なり。もってその決死奮闘の状を想《おも》うべし。 [#ここで字下げ終わり]  これは城下の敵を一掃しようと佐川官兵衛を総督に、数百の会津藩兵が槍を振るって突進した日である。懐中に法号をしのばせ、戦死覚悟の出陣であった。砲弾雨のなかを皆突撃し、いくつかの敵塁を奪ったが、士官が次々に討ち斃《たお》され、百七十名にも及ぶ死者を出してしまった。長岡藩大隊長山本|帯刀《たてわき》が戦死したのもこの頃である。  長岡城が陥落したため長岡藩大隊長の山本帯刀は会津に来ていた。山本は、会津兵と高田より若松城に入ろうとして飯寺《いいでら》村に向かって進み、敵軍を側面から攻撃し、まさに撃破せんとした時、敵に包囲されてしまった。  敵の軍監三宮幸庵は長岡藩の山本と知って降伏を勧めたが、帯刀は憤然としてこれを拒否、将卒全員が斬られた。  帯刀の従者渡辺豹吉は斬られんとした時に、「我が命、惜しむにあらず。主人、葬りしあと死に就かん」と哀願し、敵兵の涙を誘ったと伝えられている。山本は二十四歳であった。  九月に入ると、薩長軍の撃ち出す大砲弾は一昼夜に二千発にも及び、会津鶴ヶ城は悲惨凄愴の光景を呈したが、必死に城を守る大勢の人々がいた。江戸火消しもその一団である。  江戸藩邸の火消しが二十人ほど来ていた。彼等は西出丸北隅の鐘楼を屯営とし、火災が発生すると水を注いでこれを消し、榴弾が飛び込むと、衣類を水に浸して、これを包んで冷却し、自軍の用に供した。大書院、小書院は榴弾が飛び込むのがもっとも激しく、籠城中に落下した弾丸は幾千発にもなったが、火災が発生しなかったのは、彼等の勇壮な活躍によるものだった。  主君|容保《かたもり》の義姉|照姫《てるひめ》を中心とする婦女子の活躍も戊辰史に残るものだった。  奥女中は怪我人のために、自分の美服を惜しまず提供した。  終夜、怪我人に付き添う事も行い、投薬から百般の看護に至るまで労をいとわず働いた。特に旧幕府の兵や他郷から来た兵には親切で、涙を流さぬ者はなかった。  食事は照姫自らこれを監督した。本丸の西隅に炊事場を設け、婦人が集合して水を汲む者、米を洗う者、飯を炊く者、各分業して作業に当たった。  炊事場には石竈《かまど》十数個を設置し精米を炊き、これを奥女中室に送り、若年寄格の女中が藩士の婦人を指揮して握り飯をつくり、これに野菜や魚肉、鳥肉、牛肉等を添え、盆に載せ、表使女中が先頭に立ち侍女二人これに従い、幾つかの縦列を作り、整然と病室に運んだ。一斉攻撃の前後には昼夜を分かたず飯を炊き、十数個の石竈は一刻も火が絶えることはなかった。  婦女子の働きは見事の一語につきた。  小栗夫人は幼子がいたので、このような形で参戦することはなかったろうが、会津藩婦女子のすごさを、各所で見聞したに違いなかった。  銀十郎の所属する越後方面隊はこの時、第二次突撃隊を編成し、城外の敵を殲滅する最後の作戦に入ろうとしていた。  銀十郎はこの戦いで戦死したのである。  それは九月十一日のことだった。銀十郎が所属する朱雀四番士中隊誠志隊は、熊倉付近で、芸州、長州、松代の敵と一進一退の攻防をくり広げていた。  銀十郎は田園を北から南に流れる小塩川堰《こしおかわぜき》の窪地に身を伏せ、銃撃していた。平石|弁蔵《べんぞう》の『会津戊辰戦争』にその時の戦いが記されている。  著者の平石弁蔵は若松二十九連隊付きの陸軍大尉で、大正元年に会津若松市の丸八商店出版部から発刊した。『会津戊辰戦史』が多くの専門家を動員して編纂したのに比べると、個人的な取材だが、熊倉の戦いは平石の方がより詳細に記述している。  当初、戦いは会津軍が優勢だったが、「時に塩川に向いたる西軍、急を聞き来たり援け、上高久《かみたかく》村より東軍の側面を衝き、村落内に於て格闘、時を移す。西軍機に乗じ一斉に殺到し来る。東軍遂に退く」とあり、銀十郎は深追いして側面の敵に討ち斃されたのであった。この日、この辺りで戦死した会津兵は銀十郎を含めて十五名に達し、同じ隊の小栗歩兵、佐藤福松が涙ながらに遺体を収容し、葬った。ちなみに『会北史談』(喜多方市)第二十二号に柚木伸稲『熊倉の杉下墓地にある佐藤銀十郎の墓の物語』という論考がある。 [#改ページ]   八 小栗一族の明治  銀十郎の墓[#「銀十郎の墓」はゴシック体]  銀十郎は、隊長町野|主水《もんど》の片腕であった。戦法を心得ていたし、度胸もあった。  熊倉の杉の下墓地に銀十郎の墓がある。高さ八十センチほどの小さな墓石に、 [#ここから1字下げ] 本国上野佐藤銀十郎信一墓 明治元戊辰年九月十一日 行年二十一 [#ここで字下げ終わり]  とある。  外に戦死者の墓石は見当たらない。特別の扱いといってよい。  それは何故か。  銀十郎はこの誠志隊にとって特別の人間ではなかったのか。そして墓石の建立には、町野主水自身が深くかかわっていたのではないかと推察される。  戦後のことになるが、会津城下の戦死者の埋葬は実にひどいものであった。  有名な話だが、あの白虎隊士の遺体も飯盛山に放置されたまま鳥獣野犬の餌食《えじき》になっていた。滝沢村の肝煎《きもいり》吉田伊惣次が見るに見かねて、村人三、四人と謀り、遺体を近くの妙国寺に運び仮埋葬した。  これが官軍の知るところとなり、伊惣次は逮捕され、埋めた屍体は再び掘り起こされて野に捨てられたという。  戦後、会津藩首脳は戦犯として東京に護送されたため、屍体処理は手つかずの状態にあった。この時、旧家老の原田対馬ら何人かが戦後処理のため残留を命ぜられ、最初に手がけたのがこの問題だった。  このなかに町野主水がいたのである。薩長の新政府軍だけで会津の戦後処理を進めることはできない。そこで、こうした処置となった。  脱走した会津藩士の捜索や屍体処理の責任者は越前福井藩士、久保村文四郎と隊長の三ノ宮某で、町野は久保村や三ノ宮の間で激論を重ねながら仕事を進めた。  相手が誰であろうが、いったん言いだしたら絶対に引かない町野である。戦後処理が一段落して、会津藩再興が許され、下北移住と決まった時も町野は墳墓の地を離れることはできないと、強硬に反対し、移住派の永岡|久茂《ひさしげ》と口論になり抜刀に及んだこともある。  埋葬が本格的に始まったのは明治二年二月からで、鶴ヶ城内の古井戸や仮埋葬所から阿弥陀寺と長命寺に屍体を搬送した。屍体は罪人なので、屍体の処理は非人に行なわせよというのが明治新政府の命令で、伴百悦《ばんひやくえつ》は自ら非人になって、これを行なった。  屍体は腐乱して、悪臭を放ち、目もあてられぬものだった。町野らは風呂桶に入れたり、蓆にくるんだりして、板戸にのせ、実に二千三十二人を運んでいる。  それらの供養が行なわれ、以後、各地で戦死者の合葬や墓石が建てられるようになる。そうしたなかで、町野の脳裏には、いつも敏速、沈着、怜悧にして豪胆の銀十郎があったと見てよい。  銀十郎の墓は、町野の指示で建てられたと考えて間違いない。銀十郎は町野主水という硬骨の会津武士とともに戦ったことで、その名を会津戊辰史に刻んだのである。  後日談になるが、町野とともにこの作業に当たった伴百悦は明治二年七月、任務が終わって帰国の途についた敵将久保村文四郎を越後街道で待ち伏せし、一刀のもとに斬り斃《たお》している。世にいう「束松《たばねまつ》事件」である。伴は越後に逃れ、阿賀野川ぞいの大安寺村に身を潜めたが、越後村松藩の捕り手に踏み込まれ、一人を刺したあと自ら喉を突いた。  新津《にいつ》市大安寺の慶雲庵裏手に墓があり、正面に会津藩士伴百悦墓、左側に明治三年六月二十二日没、享年四十四とある。  謎の墓碑[#「謎の墓碑」はゴシック体]  小栗歩兵のなかで、特異な行動をした人間がほかにもいる。一人は中沢兼吉である。兼吉は水沼河原で斬首された大井磯十郎の兄で、この時、数え四十七歳である。中島三左衛門の五十四歳につぐ年齢であった。  兼吉は戦後、権田村に戻っており、陣田地区の墓碑にほぼ次のようなことが記されている。 [#この行1字下げ] 八月二十三日、白河口破れ、城攻めに付き、引揚げ候節、所々戦争打破れ、会津入城、鉄《くろがね》御門で梶原平馬取|嗣《つ》ぎ、会津|肥後守《ひごのかみ》将、若狭守《わかさのかみ》対面、関山伏勢を命ぜられ、昼夜なか三日間戦い、打ち破れ、それより日没まで畔《あぜ》に伏せ、九月十七日和睦に付、引揚げる。  この墓碑は兼吉が明治十七年に没した後に建てられたもので、小栗歩兵が会津藩主松平容保親子に対面ができたであろうか、という疑問もあるが、事実とすれば会津藩首脳が小栗夫人に対して十分に配慮した事を示すものといえよう。  ただし「八月二十三日、白河口破れ」とあるのは誤りである。白河城が奪われたのは閏五月一日であり、八月二十三日は会津城下に敵が侵入した日である。  もう一人特異なのは池田伝三郎である。  伝三郎は仙台から榎本武揚の艦隊に乗り込み、箱館戦争に参戦している。伝三郎は銀十郎と並ぶ小栗歩兵の精鋭である。東善寺に暴徒が押し寄せた時、縦横無尽に走り回り、何人かを討ち取っており、降伏すれば、罪に問われるという恐怖心があったことは否めない。  このため敗色濃厚の会津城下を脱出、仙台に向かったと考えていいだろう。問題はいつ会津を脱出し、どのような経過で榎本艦隊に乗り込むことができたかである。小栗夫人一行は西郷頼母、横山主税、秋月悌次郎らに支援を受けている。このなかで仙台から箱館に向かったのは西郷頼母である。西郷に付いて行ったとする見方もあるが、この線は薄い。西郷頼母は籠城戦が始まってすぐ城外追放処分を受けている。伝三郎がこれに付いて行くはずはない。  大鳥圭介や古屋佐久左衛門らが仙台に向かうのは、九月十日前後である。二人は十一日に土湯《つちゆ》峠を越し、十二日に福島に入っている。これに付いて行った可能性が高い。福島には旧幕府老中の小笠原長行《おがさわらながみち》の本陣があり、大鳥はそこで各地の情勢を聞くと米沢は降伏し、仙台も変心、庄内も苦慮しているという。 「然る上は奥羽の藩ひとつも恃《たの》むべきものなく、仙台へは海軍着の由なれば仙台へ行き、榎本その外に謀り、力を合わせて事を共にするのほか策なし」と、直ちに仙台に向かっている。  伝三郎はフランス式歩兵の訓練を受けている。大鳥軍にはフランス式歩兵がおり、このなかに顔見知りがいたかも知れない。仙台にフランス陸軍ブリューネ、カズノフらも来ていた。かくなる上は箱館しかないと伝三郎も決断したのであろう。  ちなみに会津藩からは、西郷頼母のほかに公用方重臣の小野|権之丞《ごんのじよう》、諏訪常吉、安部井政治ら約七十人が加わっている。  参謀たちはいずれも仙台常駐の人々で、会津に戻ることができず、やむを得ず乗船した人もいた。このうち安部井は松前で壮絶に戦死を遂げ、諏訪は箱館郊外で重傷を負い、小野権之丞が事務長をつとめた箱館病院で戦病死している。  小栗家再興[#「小栗家再興」はゴシック体]  会津藩の降伏は九月二十二日である。この日|巳《み》の刻(午前十時)北|追手門《おおてもん》に降参と大書した白旗が建ち、会津藩は薩長の軍門に降った。秋月悌次郎や町野主水が弾丸雨飛のなか米沢藩や土佐藩の陣営を走り回り、主君容保の助命と引き換えに降参したのであった。  会津藩兵は近郊の塩川、浜崎、猪苗代に謹慎、傷病者は青木村の病院に収容、婦女子及び六十歳以上、十四歳以下は勝手に立ち退くべしの命令が下り、城下に残った小栗の歩兵たちも、それぞれの地に収容されたものと見られる。  この時、小栗夫人たちはどこにいたのか。残念ながらこの辺りはまったく不明である。早川桂村の記述には次のようにある。 [#ここから1字下げ]  会津藩降伏、騒乱鎮圧後もなお滞留し、翌明治二年春、江戸に帰らんと会津を発したるも、道路険悪なる上、寒気《かんき》もまた峻烈《しゆんれつ》、しかして一般の人気|殺気《さつき》を帯び、婦女子同行のため人夫等に不当酒代等を強請《ごうせい》(ゆすり)せられたること数回なり。よって途中より川船の便により江戸に達したるに、慶喜公は隠退《いんたい》し、田安亀之助《たやすかめのすけ》入って徳川家を相続し、封地静岡に帰られ、旗本御家人等の多くは、同地に移住し、江戸には知人の住居する者もなく、去年の春江戸を去りしより僅かに一年して、光景一変、未知の地に至りしがごとし。  老母、夫人と幼児に三左衛門、随従《ずいじゆう》し静岡に至り、駒井家に交渉し、忠順の遺児幼少、殊に女子なるをもって、又一忠道の弟某をして、仮に小栗家を相続せしめ、将《まさ》に断絶に瀕《ひん》せる家名を継続するを得たり、これは数年後の事なるが、順序として茲《ここ》に挿入《そうにゆう》す。 [#ここで字下げ終わり]  小栗夫人は母子共に健康であった。一党は会津で冬を過ごし、上京の際は道中、人夫に不当な代金を強要され、危険な旅であったというが、ともかくも江戸に着き、ほっとするが、徳川家の家臣たちは静岡に移っているため老母、夫人、幼児の三人に三左衛門が付き添って今度は静岡に向かい、ようやく安住の地を見出だすのである。夫人と老母は勿論のこと三左衛門と娘さいの苦労はいかばかりであったか。一年余りに及ぶ逃避行は戊辰戦争史を飾る美談であったといえよう。  ところでもう一人の従者中沢兼吉は、早川桂村とは大きく異なる話を伝えている。中島三左衛門が夫人と離れていて、奥方は松川にいたというのである。  松川とはどこか。福島市の松川という説がある。そこまで乳飲み子をかかえた小栗夫人と老母が三左衛門と離れて出かけたのであろうか。考えにくい行動である。  しかし兼吉の墓碑銘には、兼吉が一人、松川に向かい小栗夫人を捜しあて、東京へ向かったと次のように記されている。 [#この行1字下げ] 明けて明治二年四月、東京へ向って夫人等を伴なう。尋ねる知辺《しるべ》の人一人もなく、旅金も使い果し、家来残らず暇《いとま》を乞う。女中二人我れ一人、途方に暮れ居りし時、三井の番頭三ノ村氏を尋ね、旅金を借り、東海道駿河府内へ伴い、四年の月日歎き苦しみ、駒井の末子貞四郎君を養子として御家を立て奉り、官金を賜り、小栗家|寿々《めでたしめでたし》也。  とあり、三左衛門ではなく兼吉が一人で夫人たちを江戸に連れて行き、三井の番頭三野村利左衛門から金子を借り、静岡に向かい、小栗家を再興したというのである。兼吉と三左衛門の間に何か確執があったのか。小栗夫人の逃避行は意外な副産物を産んでいる。  真実はどちらか、三左衛門は前橋藩から「赤誠《せきせい》は累代禄を食《は》む家臣といえども遠く及ばない」と感嘆され、誉田《ほんだ》の苗字を与えられ、以後、誉田三平次と名乗り、明治の世を生きたことが確認されており、同行したのは三左衛門と断定してよい。なお兼吉は明治以降、兼五郎を名乗っている。  小栗の遺児クニ子は三井家の大番頭三野村利左衛門と大隈重信《おおくましげのぶ》によって厚く保護されて成人し、明治二十年、前島密《まえじまひそか》の媒酌で矢野貞雄と結婚、それまで小栗家を継いでいた又一の兄駒井悌四郎に代って小栗家を継承した。 [#改ページ]   九 日本という国  司馬遼太郎[#「司馬遼太郎」はゴシック体]  歴史上の小栗上野介は、地味な人物である。伝記や評伝も極めて少ない。普通、人物を知ろうとすると、目安になる著書が何冊かある。  吉川弘文館の人物叢書もその一つである。この時代、勝海舟《かつかいしゆう》、福沢諭吉《ふくざわゆきち》、西郷隆盛《さいごうたかもり》、山県有朋《やまがたありとも》、黒田清隆《くろだきよたか》といった顔が並ぶが、小栗はない。  中公新書はどうだろう。徳川慶喜《とくがわよしのぶ》、徳川昭武《とくがわあきたけ》、以下勝海舟、大久保一翁《おおくぼいちおう》、福沢諭吉、渋沢栄一、岩瀬忠震《いわせただなり》と幕臣が並ぶが、こちらも小栗の名はない。薩長土肥の方は高杉晋作《たかすぎしんさく》、坂本龍馬《さかもとりようま》、木戸孝允《きどたかよし》、大久保利通《おおくぼとしみち》、西郷隆盛、大村益次郎《おおむらますじろう》とキラ星のごとく並ぶ。  権田村で梟首され、人生の仕上げがなかったという点で、いまひとつ顔が見えず、描きにくいのかも知れない。幕末、勘定奉行として国政に尽くしたものの、しょせん勝てば官軍、負ければ賊軍である。小栗の業績もどこかに吹き飛んでしまい、保守頑迷の男というマイナスのイメージだけが、残ってしまった。  司馬遼太郎は『明治という国家』と題し、NHKテレビで十回以上にわたり、幕末、維新を語ったが、明治は清廉で透きとおった公感覚と道徳的緊張、モラルをもっていたとし、維新を躍進させたのは風雲児坂本龍馬、国家改造の設計者小栗上野介、国家という建物解体の設計者勝海舟、新国家の設計助言者福沢諭吉、無私の心をもち歩いた巨魁西郷隆盛の五人であり、彼らは明治の偉大なファーザーである、と説いたのである。  小栗は司馬遼太郎によって、初めて国民的視野で、歴史の檜舞台にでたのである。司馬遼太郎が語る小栗は実に魅力的であった。司馬は徳川国家の遺産という形で小栗をとらえ、なぜ彼が明治国家のファーザーであるか、諄々《じゆんじゆん》と語った。  そのきっかけは、万延元年の訪米であったと司馬は説いた。小栗はアメリカという近代国家を見て、徳川封建制国家は、解体の時期にあることを肌で感じ、フランスと手を取り、フランスからの借款によって海軍の創設や造船所の建設に着手し、明治国家の基礎を築いたとしたのである。 「勝海舟が世の現象を天衣無縫《てんいむほう》ともいうべき表現力で、しゃべって見せたのに対して、上野介はむっつりと幕府の大金庫の前に座り込んで、金庫の中身と相談して、なすべきことをやって行くという型であった」——このように勝と小栗を対比させ、ストーリーを展開したのだった。  小栗はアメリカで具体的に何を学んだのか。  この問題になると仙台藩士玉虫左太夫の『航米日録』が真っ先に頭に浮かぶ。左太夫は正使新見豊前守正興の従者であり、小栗と同じポーハタン号に乗り込んでいた。 『航米日録』を読むと、左太夫の世界観の変化が日を追って明らかになってくる。当時の日本人の多くがそうであったように、左太夫も初めはアメリカ人を夷狄《いてき》と見た。 「礼法ニ於テハ禽獣《きんじゆう》同様ニテ、取ルニ足ラズ」 「我国ノ剣槍法ヲ見セシメバ、必《かならず》胆ヲ消スベシ」  ポーハタン号の水兵たちの日常生活や、教練を見てそうおもった。しかし左太夫の夷狄観は次々に打ち破られる。暴風雨が来るや艦長以下、総力をあげて立ち向かうシーマンシップに感動し、ただおろおろするだけの日本人に、恥ずかしさを覚える。  左太夫は蒸気車、蒸気船、ホワイトハウス、大統領、学校、病院、建築、軍隊、物価、人種、風俗……、と目にするすべてのことに関心を寄せて記録にとどめ、さらに遣米使節の評価にまで及ぶのである。  正使新見豊前守、副使村垣淡路守を指し、終日、飲食に明け暮れ、金に糸目をつけず、買い物に熱中する姿を告発している。小栗についてはまったく触れておらず、左太夫がどう見たかを知ることはできないが、小栗のことである。左太夫と同じように、鋭い目でアメリカを見つめていたであろうことは間違いない。  威厳と知性[#「威厳と知性」はゴシック体]  アメリカの新聞は連日、日本使節の動向を報じており、「ニューヨーク・ヘラルド」紙と「ハーパー週報」に小栗ら重臣たちの人物評があった。 [#ここから1字下げ]  正使新見豊前守は小柄で、ねこ背である。うっすらと赤銅色の顔は、淡くオリーブ色がかって、どちらかといえば、竹製のステッキのような色をしている。年は四十歳位。顔は馬づら、鼻は他の日本人の鼻と比べてみると、一風変っている。やせて厚みがないのでユダヤ人や、ローマ人の鼻とも似ていない。それは、長い曲がった鼻であって、ナポレオンが「こういう鼻の男は、いちばん抜け目がない」といっていたものである。  眼は小さく、鋭い。その眼は何も見ていないようでも、じっさいは何も見落とさないのである。彼の動作には、ゆったりとした落着きや威厳が見られるので、誰もが深い敬意を払うようになる。  監察小栗豊後守は小柄で、活気と表情に富んだ紳士である。その容貌には、威厳と知性と決意の固さなどが、ふしぎに混ざっている。彼はたしかに、すきのない男である。接見のとき、直立し、目を伏せていたが、その目は絶えず動いているようであった。彼は使節団の中では実際、最も責任の重い役目を負っており、彼に相談しないことには、何もできないのである。彼はどこから見ても監察というにふさわしく、もし私たちが日本人だとして彼に睨まれたら、二度とうだつが上がらないのである。(「ニューヨーク・ヘラルド」)  正使は小柄の人で猫背である。彼は丈|凡《およ》そ五|呎《フイート》半あり、年齢は三十五歳である。面長で鼻は一種特別の形をなし、彼の容貌中、最も注意を喚起させる。ユダヤ人風と称すには貧弱に過ぎ、ローマ人と云うには平た過ぎる。それは正弧の形で鸚鵡《おうむ》の嘴《くちばし》に似ている。おそらく余の誇張かも知れない。  副使は正使よりも二十も年上に見え、容貌は明かに一層醜い。彼はその歯の多くを失い、残りの歯もすこぶる悪くなっている。彼は極端に温和な顔をしている正使に比べ、厳格で少し智的な容貌をしている。  使節一行は何れも権利により二本の刀を帯びている。しかし是等の人々の殆んど半分は、多少痘痕がある。彼等はすべて皮が厚く色は薄黒く、一般に竹の散歩杖の色である。しかれどもこのうち三人の顔は赤色を帯び、体裁よく、彼等の何れにも安心と威厳とが甘く組合わされている。(「ハーパー週報」) [#ここで字下げ終わり]  この外国紙の人物評は、なかなか適確である。特に「ニューヨーク・ヘラルド」紙の小栗の記述は、ずばり的を射ており、小栗が実力ナンバーワンであると看破している。  これとよく似た日本側の記録は幕府外国方|田辺太一《たなべたいち》の『幕末外交談』である。  本来、使節団は外国奉行兼神奈川奉行であった水野筑後守が正使、副使には目付の岩瀬|忠震《ただなり》が予定されていた。しかし将軍|継嗣《けいし》問題で井伊大老から罷免され、新見、村垣、小栗の三人になったいきさつがある。田辺はその点に不満があり、正使、副使の評価が辛いといえるが、小栗については高い評価を与えている。 [#ここから1字下げ]  新見の父、豊前守は、すこぶる漢学に通じ、忠良の誉《ほま》れがあった。かつて大坂町奉行として淀川を浚渫《しゆんせつ》し、その土をもって天保山をきずき、府民にその功を賞せられた。また、慎徳公(十二代、家慶《いえよし》)の襲職の後に、前代(家斉)の套靡《とうび》(おごり)が改められ、倹約の令が布かれ、文武の道が奨励されたが、これは豊前守が家慶の側近として啓沃《けいよく》(主君に言上)するところが少なくなかったからだという。しかし、その子の豊前守は父に似ず、尋常の才しかなかったようだ。  淡路守は幕吏《ばくり》の家の出身だから、ただ吏務《りむ》に経験があったというまでのことで、とうてい岩瀬などの人物におよぶべくもなかった。  ただ、小栗だけは英才で、敢為《かんい》(断固実行)の気性に富んでいたので、この旅行でいくらか見聞をひろめ、心胸《しんきよう》を開いたこともあったのであろう。だから、幕末の衰運に際しても鞠躬《きつきゆう》(気を使う)として尽瘁《じんすい》し、いわゆる一日を存すれば、すなわち一日臣子の責をつくすの覚悟で、あえて労をいとわなかった。徳川氏の末路における一良吏と世に称せられたのも、思うにこの旅行によるところがあったであろう。 [#ここで字下げ終わり]  田辺は訪米によって小栗は開花したとしたのである。  ただし、小栗自身の言葉でアメリカを語った文献はなく、このことが、若干、小栗の人間像を不透明にしている。 『小栗日記』を見る限り、小栗は文人ではない。文才にとぼしく、簡単にその日の出来事を記す程度であり、仮に記録があったとしてもメモのようなものであったろう。したがって、周囲の人間たちの記録から小栗が何を得たか、推察する外はない。  藤七の日記[#「藤七の日記」はゴシック体]  訪米に際し小栗は、九人を従者として同行させている。用人吉田好三、給人塚本|真彦《まひこ》、荒川祐蔵、三好権三、福島恵三郎、木村鉄太郎、三好広次郎、佐藤藤七、木村浅蔵である。  このなかに、三人の注目すべき人物がいる。小栗とともに烏川の河原で斬られた荒川祐蔵、養子又一と同道し高崎で斬られた塚本真彦、それに権田村の名主佐藤藤七である。  荒川、塚本はともに二十九歳であった。二人は訪米の知識を明治の世に生かすことなく無念の死をとげたが、生き残った藤七はこの時、数え五十四歳。武士ではないが、代々権田村の名主をつとめ、造り酒屋として地酒瑞竜を醸造している村でも指おりの豪農で、一千坪を越える宅地に住んでいた。漢学の素養に武術の心得もあり、体格も六尺豊かな大男であったという。  毎年、秋の収穫が終わると江戸の小栗へ年貢の代金を届けるため、歩いて出かけた。ある時、夜道を熊谷の土手まで差しかかると、追剥《おいはぎ》が仲間と焚火をしながら、カモを待っていた。  藤七の腰には年貢の金がびっしり入った金袋が下がっている。これはまずいと思った藤七は、とっさに腹を決め、 「あんまりぬくとげだから、あててくんろ」  といって、くるりと尻をまくって焚火にあたり始めた。  あっけにとられた追剥を尻目に、 「ああ、ぬくかった。ありがとがんした」  と、さっさと歩きだした。  追剥の子分が、気をもみながら、 「早く後を追いかけて金をふんだくらなくちゃ」  というと、親分は、どすのきいた声で、 「馬鹿、あの男は手強い相手だ、よせ!」  子分は不服そうに、 「なぜでがんす親分……?」 「てめえら、わからなかったか。ふんどしからはみだしたきん玉が、ぶらり下がっていたじゃねえか。肝っ玉のでっけえ証拠だあ。ああいうおとこに、うっかりかかわりあうと、ひでえ目に遭わあな」  もちまえの度胸と、とっさの気転で、藤七は追剥の難を免れたという。  これは、「小栗夫人の権田村脱出路踏査記」を書いた小板橋のユーモラスな文章『権田の名主佐藤藤七と渡海日記』の一部だが、藤七はいろいろの顔を持っていたようである。小栗がどのような判断で引率したのか、推察すべくもないが、この藤七が絵入りの訪米記録を残していたのである。それは和紙六十枚に整然と書かれており、その一部を抜粋する。 [#ここから1字下げ] 三月九日 小雨 六十度 [#この行1字下げ]夜明て「サンフランシスコ」の山を見る、山上山下人家満々、四時ここに泊す、大家|軒《のき》を双《なら》べ馬車|衢《ちまた》に満ち、商船数十隻交易日々盛なり、そもそも「サンフランシスコ」は米利堅《メリケン》の属邑《ぞくゆう》にて上加里福留爾亜《カルフオルニヤ》の内なり、古は荒寥《こうりよう》の地なりしが、我が天保十年の頃初て金鉱を発見し、四方より来り住する者五千人に及べり、後十年にて人口は二万に至り、繁栄日に盛也、家は清国に倣《なら》い建す、その后失火はなはだ多く、土人是を憂《うれい》て木材を用いず、ただ土石を積《つん》で壁となし、屋上に雨水を貯え、不慮に具《そな》う、今時に至りては煙戸一万、人口十万、街市の数東西四十六条、南北二十九条、…… 閏三月二十五日 晴 [#この行1字下げ]午時|華盛頓《ワシントン》府の「ネビヤールド」に着す、同時上陸す、見物客男女数百人、この処にて暫く米利堅《メリケン》人諸公を写真鏡に写す、警固の武士、七隊二列を配し楽を奏す、迎の車ばかり多く来り貴人は一人に車一輛、それ以下は二、三人より十五、六人を載せ、馬は毛色を斉《そろ》え次第に進む、車の先に騎兵一隊、歩卒三隊、後に歩兵三隊ともに楽を奏し進む、「ネビヤールド」の石門を出て行く事一里余にて旅館に着す、道路の見物人数千人、馬車に乗し、あるいは歩行あるいは木に上り高きによって道を塞《ふさ》ぐばかり也、旅館は七重の家にて横四十間ばかり、本朝人の宿所は三公は二階目の奥にて、その以下従者は三階目の表面也。 同二十八日 晴 [#ここから2字下げ] 諸公国主と王府に於て初て対面し玉う、柳《りゆう》国主と云うは米利堅合衆部の大統領にて、姓は「ヤーメス」名は「ブカナン」年六十余、髪ことごとく白し、安政二年即位の今に六年なり。其人の才智衆に勝れたるを以て、衆推して大統領と成れり。    蒸気車 蒸気車の制はその理、蒸気船に同じ、第一の車は蒸気機関にて一人にて火を焼《た》けば、八輪、蒸気の力にて転ずれば後の車これに従いて走る、その疾《はやき》事風の如し、第二の車は薪あるいは石炭を載むのみ、第三の車は水、糧《かて》、荷物を載す、車中長さ七間ばかり、横九尺余、左右窓の下に|曲※[#「祿」のつくり、unicode5f54]《きよくろく》(椅子)を繋《つな》ぎ双《なら》べ、一車ごとに八輪車と車とを繋ぐに鉄の錠を以て結び付、車道は輪の乗る処、鉄の棒を横たえ、下に材を以て是を受く、その輪の当る処総じて甚《はなは》だ危し。 [#ここで字下げ終わり]  この日記を読むと、訪米記録の白眉《はくび》といわれる玉虫左太夫の『訪米日録』なみの監察眼が随所に見られ、大統領との対面の場面などは真に迫っており、高官でなければ伺い知れない場面も含まれている。  蒸気車の解説も物理や機械の知識を伴う描写である。日記は『倉渕村誌』に収録されており、そのなかで「この日記のことは前から知られていたが、藤七のものとは信じがたいという人もあって公にされなかった」とただし書きがあり、さらに「この日記の前書きは藤七の自筆であるが、内容及び写生の淡彩墨絵は藤七の筆跡と違っている」ことも明記されている。  では、誰が書いたのか、小栗の用人、塚本真彦、荒川祐蔵らも考えられる。しかし小栗のことがわずかしか触れられておらず、明らかに別の人物であろう。他人の記録を模写したことも考えられる。  いずれにしても藤七は、謎の多い人物である。  「江湖新聞」[#「「江湖新聞」」はゴシック体]  ところで幕末遣米使節の成果について、古くは福沢諭吉の『万延元年アメリカハワイ見聞報告書』『西洋旅案内』『世界国尽』『西洋事情』などに記され、その後、大正年間に尾佐竹猛が『幕末における遣外使節の話』『夷狄《いてき》の国へ』などを出版し、新しくは宮永孝『万延元年のアメリカ報告』に至るまで数多くの作品や論文があり、この訪米が日本の近代化に大きく貢献したことは、誰しもが認めるところである。  なかでも、もっとも大きな成果は何か。また小栗とそれがどうかかわっていたか、問題はそこにある。  そのことを鋭く見つめたのは、幕臣|福地源一郎《ふくちげんいちろう》(桜痴《おうち》)である。  源一郎は肥前長崎の人で、天保十二年(一八四一)の生まれなので、小栗よりは十四歳若い。幕府に仕官したのは安政六年で、上野介が訪米した時、外国奉行支配同心格という末端の職務にあった。この時数え十九歳である。血気盛んな若者で、正使と目されていた外国奉行水野筑後守に訪米を熱望していたが、水野筑後守がこけて、源一郎の訪米も消えた。福沢諭吉が訪米組に加えられたのを知って、口惜し涙を流している。  しかし、文久元年(一八六一)に夢がかなって外国奉行竹内下野守の随員としてヨーロッパに渡り、慶応元年(一八六五)にも再度渡欧、幕府切っての外国通となる。フランス語、英語に通じ、学習塾まで開く源一郎だが、慶応三年将軍慶喜が大政奉還した時、源一郎は大いに怒り、大政奉還後の幕府のあり方について、小栗に上書を提出している。  幕閣のなかで、小栗上野介を除いて日本の将来を描ける人物はいない、源一郎はそう評価していた。  二度の訪欧で源一郎は、幕府の封建体制に見切りをつけていた。かといって攘夷《じようい》を叫ぶ薩長の志士や宮廷勢力は、もっとも毛嫌いし、幕府の再建による近代化国家の建設を指向した。  小栗にあてた上書は、大政奉還は将軍が決断したことであり、やむを得ない。しかし、徳川家があくまで政局の中心でなければならないとするもので、共和政治に改め、大統領制を導入することを提案した。小栗はこの意見に大いに賛成し、源一郎は事態収拾の任をおびて大坂に向かっている。  大坂はこの時、混乱のるつぼと化していた。幕府、会津連合軍は京に攻め上り、京都を制圧すべきだと激昂し、慶喜もその肚でいた。  この時、源一郎は幕府から戦いを仕掛けるのは拙策《せつさく》とし、上策は将軍が大坂にいて京都と西国の間を断ち切ること、中策は将軍が江戸に東下し、在坂の幕兵、会津兵が摂海一帯を抑える。下策は鳥羽伏見を避け、山崎街道を上京するの三策だったが、源一郎が最悪の手と見た鳥羽伏見の強行突破で、すべてがご破算になった。  源一郎は神戸からイギリス船に乗り、江戸に戻り、城中の評議に加わるが、甲論乙駁《こうろんおつばく》、さっぱり結論がでず、小栗の断固戦うべしの声も空しく消され、恭順、非戦論と決まった。このことは後で詳しく述べる。  源一郎は恩人水野筑後守と別離の宴を張って別れ、江戸の家屋敷を売り払って借家に住まいを替えた。幕府から与えられた公邸は、いずれ没収されると考えたためである。幕府がつぶれた以上、禄はあてにできないので、食うためには何かしなければならない。そこで「江湖新聞《こうこしんぶん》」の発刊に踏み切った。慶応四年四月三日である。権田村の采地は存続すると考えた小栗とは対照的な判断だった。  奇しくも小栗が権田村に引きこもった時である。発行日は三日か四日に一度、半紙二ツ切りの木版十枚ないし十二枚を一部とし、時局ダネ、外国新聞の翻訳、世間話、寓話、投書、上書建白の類を盛り込んだ。新聞発行は小栗も夢見ていた仕事の一つである。  時局ダネは旧幕府、会津方を支援し、会津軍有利な情報をぞくぞく流した。  薩長の南軍はいずれ北の会津軍に破れる、源一郎はそう論陣を張った。  小栗の動向もニュースとして大きく取り上げた。小栗の死を知るや、その死を悼《いた》み、罪なくして斬られたことを「江湖新聞」で次のようにとりあげていた。 [#ここから1字下げ]  小栗上野介の死は皇国の損害(閏四月二十三日、「江湖新聞」要約)  小栗上州は国家多事の際に臨み、百折撓《ひやくせつたわ》まず、ただ狷介《けんかい》(片意地)の性なれば、世上の説、往々|毀誉《きよ》相半せり。然るといえどその凶報は、皇国に取りて一個の人物を失えりというべし。かつその罪を論ぜず、その過ちを譲《せ》めず直ちにこれを殺戮《さつりく》せるは、いかなる事実|歟《や》は知らざれども、人才を惜み忠臣を憐《あわ》れむの意にあらず、特に億兆《おくちよう》の民庶御愛撫の御趣意とも覚えず、これを天下の公議に質《ただ》さんのみ。  右之議論を添え、匿名《とくめい》にて余が新聞局に投ぜる者あり、よってここに出す。 [#ここで字下げ終わり]  源一郎は小栗|梟首《きようしゆ》の模様を事実にそって報道し、小栗の性格は頑固なので、評価は相半ばするが、皇国にとって必要な人物であったと死を悼んだ。そして匿名の投書という形で、薩長のやり方を批判した。  幕末政治家[#「幕末政治家」はゴシック体]  小栗の人物評を田辺太一、福地源一郎に見たが、それでは、幕閣として、小栗は何をしたのか。  これについても源一郎が『幕末政治家』に、コンパクトにまとめている。  これは明治二十九年から一年余りにわたって「国民之友」に連載したもので、三十三年に民友社から刊行された。  内容は幕末三傑として岩瀬肥後守、水野筑後守、小栗上野介をあげ、小栗を「人となり精悍敏捷《せいかんびんしよう》、多智多弁《たちたべん》」とほめ、その業績を三つに集約した。  一つは米国の文明の事物を説き、導入を図ったこと、二つは幕府財政のやりくりに身命を賭《と》したこと、三つは軍の近代化で、「その身とその名を併せて幕府に殉じた」としたのである。  その記述は迫力に富み、小栗の人柄と業績をよく伝えている。  その概要を要約すると、次のようになる。  小栗は初め又一《またいち》と称し、のちに豊後守《ぶんごのかみ》、上野介《こうずけのすけ》と改めた。  名が知られるようになったのは、万延元年(一八六〇)、幕府の使節として訪米してからである。  帰国した時、日本は鎖国論がわき上がっていたが、小栗は誰はばかる事なく米国の文明を説き、政治、軍備、商業、製造の各分野で外国を模範に我が国の改善をはかるべしと論じ、幕閣を恐れさせた。  その後、勘定奉行、外国奉行となって財政、外交を担当したが、しばしば時の幕閣に容れられず、職を追われ、しかしまた再任され、全力をつくして国家のために精励した。とても常人の及ぶところではない。  人となりは精悍敏捷、多智多弁、時には周囲を罵倒《ばとう》する事もあって人に疎《うと》まれ、常に誹謗《ひぼう》される事が多く、小栗が終身、十分の地位に上れなかったのは、このためである。  小栗が財政、外交を司った頃は、幕府はすでに衰亡に瀕し、傾きかかった時期であり、何百人の小栗がいたとしても回復は困難な時勢であった。しかし小栗は不可能の言葉を吐いた事はなく、「国滅び、身倒れるまでは職務に専念する事が武士の勤めである」といい、身を艱難《かんなん》の間におき、幕府の維持のために働いた。  幕府が幕末数年間の命脈を繋《つな》げたのは、ひとえに小栗の力である。幕府がいかにしてその財源を得たか。不思議な気もするが、それをなしたのは小栗である。  将軍の再度の上洛、東の筑波の騒乱、西に長州征伐があり、幕府は莫大な臨時出費を要したが、小栗は財源を諸税に求め、あるいは経費を削減し、これに当て、決して必要な事業を中止するような事はなかった。  人員の削減も辞さなかったので、随分恨みもかった。  幕末になって財源はますます窮した。幕閣は紙幣を製造したが、小栗は「時期これを許さず」と反対し、発行を承認しなかった。これが発行されていたら大混乱が起こったであろう。  幕府銃隊が役に立たない事を看破《かんぱ》したのも小栗である。小栗は旗本に対し、その領地の高に応じて兵を割当て、その費用を出させ、これで数大隊の歩兵を組織したが、これこそ徴兵制度の基礎であった。  また仏国より教師を招いて兵の訓練をさせ、あわせて陸軍学校を作り将校の養成も行った。これがいわゆる幕府の伝習兵で、幕末にしばしば健闘した。  仏国より工師、技師を招いて幾多の器械を買い入れ、多額の資金を投入して、今の横須賀造船所を作ったのは、実に小栗の英断である。これは小栗の非常な勲労である。  小栗が「これぞ土蔵つきの売り家だ」と言ったのは、けだし名言であり、小栗の本心である。  しかし小栗は幕閣に選ばれる事もなく、十分にその才能を発揮する場もなく憤死し、幕府に殉じたのである。  天地はなんと邪《じや》に満ちているか。  こう告発した幕臣福地源一郎によって、小栗は正当な評価を得、さらに蜷川新の一連の作品、司馬遼太郎の『明治という国家』につながって行くのである。 [#改ページ]   十 国家改造計画  フランスは国家を照らす[#「フランスは国家を照らす」はゴシック体]  もう少し掘り下げてみたい。小栗がどのような日本を造ろうとしたかという問題である。  幕末三傑の一人であることはもはや誰しも認めるところである。その業績も源一郎の著作によって理解できた。ただし資料の面で、もう一つよく分からない。それに源一郎も蜷川新も身内である。どうしても身びいきになりがちである。もっとほかに小栗を見つめた人はいないか。その点、歴史学者石井孝の『明治維新の国際的環境』は、イギリス、フランス、アメリカなどの外交文書を使って小栗を冷静に見つめ、全編を通して他の追随を許さない客観性がある。  日本人はとかく自国の資料のみにこだわり、外国の文献を重視しない傾向がある。しかし、この時代、日本には多くの外国人が来ており、外交文書に秀れた資料が残されていた。  石井は私の学生時代の指導教官であり、いくつかの思い出があるが、その厳しさには定評があった。決してお世辞はいわず、辛辣《しんらつ》に物を語った。  文献の読み方から誤字、脱字にいたるまで、びしびし指摘した。このため学生は敬遠しがちだったが、それと学問は別であった。  小栗は石井が発掘した外交文書に、生き生きと登場していた。  元治《げんじ》元年(一八六四)三月、小栗は外国奉行であった。外務事務次官といった立場である。そこにフランス公使ロッシュが着任する。  この頃、わが国の外国貿易はイギリスが五〇パーセントを占め、フランスとアメリカは、オランダの下だった。ロッシュは対日積極政策をおびて来日したのである。 「イギリスは国内で増産される工業製品の市場を全世界に拡大し、かつ、それを保護するために圧倒的武力を行使し、そのために他国の利益を犠牲にしてさえも、商業の拡大を獲得しようとする。アヘン戦争はその証拠である」  ロッシュはイギリスを激しく攻撃した。アヘン戦争は日本の有識者にとっても、重大な脅威であった。アヘンを売りつけ、最後は武力で植民地化するやり方である。  さらにロッシュは「ロシアも絶えず領土を拡大しようとしている」と語り、加えて、「フランスは国土の繁栄を確保する条件を、もっとも豊かに、天から恵まれた国である。その住民は、その温和な国土を、少しもすてようとしない。その豊沃な国土は需要を満たし、その大きな対外商業を養う。外国人はフランス国内に、すぐれた工業産物を求めに来る。芸術および科学におけると同じく、軍事においても偉大である。フランスは強者を挫き、弱者を助ける。フランスは世界を照らす」と小栗に説いた。  石井はこの辺りをあざやかに描いている。 「フランスか」  小栗はロッシュに賭けた。  かくて幕府内に親仏派が生まれる。  栗本鋤雲《くりもとじようん》もその一人であった。フランスと提携することによって、屋台骨がぐらついた幕府の再建を図ろうとしたのである。  この年八月、勘定奉行に替わった小栗は、精力的に事業を展開する。第一弾は二万五千フランないし三万フランの資金をフランスから導入し、横浜に海軍|工廠《こうしよう》および砲兵工廠を建設することだった。  栗本鋤雲が小栗を助けた。鋤雲とはいかなる人物か。  倉渕村の東善寺の境内に、小栗上野介と栗本鋤雲の胸像が並んで建っている。二人の厚い友情を物語るものだが、小栗にとってフランス語に勝《た》けた鋤雲は欠かせぬ人材であり、二人三脚でことが進められた。  鋤雲もチャキチャキの江戸っ子で、漢方医の倅《せがれ》である。文政五年(一八二二)の生まれなので、小栗より五つ年長である。幕府の学問所、昌平黌時代は開校以来の秀才といわれ「お化け」というあだ名が付いた。  二十七歳の時、幕府医官栗本家の養子に入ったが、漢方を第一とする幕府医局に飽き足らず、ひそかに洋行をねらった。  そんなこともあってか、箱館奉行所勤務を命ぜられ、蝦夷地に渡るが、やることもなく、もっぱら仏人牧師メルメ・カションとの付き合いに明け暮れる。  カションからフランス語を徹底的に学び、江戸に帰るや幕府勘定奉行格に抜擢され、小栗を補佐することになった。フランス語を話す鋤雲は得がたい人材であり、小栗の行くところ常に鋤雲がいた。  二人はフランス主導型による日本国改造計画に着手する。  近代工業の夜明け[#「近代工業の夜明け」はゴシック体]  海軍工廠及び砲兵工廠は、幕府の陸海軍を維持する上で不可欠のものだった。オランダやアメリカから購入した艦船を修理し、銃器、弾薬の製造開発に当たるためである。イギリスが薩長に肩入れする傾向を見せ始めるにつれて、小栗らは一層フランスに傾斜して行った。  小栗は横須賀製鉄所の建設にも着手した。鉄は近代産業の基本である。艦船、蒸気車、近代文明の所産は鉄に依存している。これに手を付けたのだ。  これらの大事業の財源をどこに求めるか。慶応元年(一八六五)、フランスから経済使節クレーが来日し、小栗はクレーとの間で、三五〇〇万フランの借款を締結した。 「フランスの会社ソシエテ・ジェネラールと英国の大銀行オリエンタル・バンクが日本政府の蔵相の要請により、日本側のために三五〇〇万フランの借款契約を締結した。ソシエテ・ジェネラールの代表者クレー氏に対して、日本政府は、莫大な額の武器、装備、軍艦を発注した」  ロッシュは、こう報告している。  蔵相とは、むろん小栗のことである。  フランスは日本に銀行をもたなかったので、イギリスのオリエンタル・バンクが仲に入って取引が成立した。ドルに換算すると三五〇〇万フランは約五〇〇万ドルである。この資金を軍艦、大砲、小銃など軍事的装備に二五〇万ドル、横須賀製鉄所に二四〇万ドル、外国人の給与などに一〇万ドルと分割した。  資金の返済はどうするのか。経済学者坂本藤良の『小栗上野介の生涯』によれば、税制の改革や生糸貿易の発展、鉱山開発などによって資金を生み、返済する計画であった。  この国家的プロジェクトは当然のことながら幕閣に異論もあった。  横須賀に敵が攻めて来たらどうするのか。金を返すあてはない。製鉄所など必要ないといった堂々めぐりがくり返され、その都度、小栗の役職が替わった。勘定奉行を免ぜられて軍艦奉行に替わり、また復職するといった具合であったが、ともかく計画は進み、この年二月には、上海からフランスの技術将校ヴェルニーが来日、日本側は老中水野和泉守を総責任者とする建設委員会を設置した。委員会は建設日程計画を練り、横須賀で山地伐採、海岸埋め立て、従業員宿舎と工場の建設に入り、さらに日本側代表者をフランスに派遣、フランス人技師、職工の雇い入れ、機材の買い付けを行なうことも決めた。製鉄所本体の工事は十一月に着手、慶応四年十一月に製鉄所一カ所、修船所二カ所、造船所三カ所を完成させることをうたった。  柴田《しばた》日向守《ひゆうがのかみ》一行がフランス本国との協議のため横浜からイギリス郵船「ニポール」に乗り込みパリに向かったのは慶応元年閏五月である。六月二十六日にスエズ着、汽車でアレキサンドリアに行き、そこからまた船に乗り、七月六日にマルセーユに着いている。  このなかに源一郎がいた。  源一郎はこの時のことを『懐往事談《かいおうじだん》』に詳しく記している。  マルセーユに来日したことがある海軍技師ヴェルニーが出迎えており、ヴェルニーは一行をツーロンの造船所に案内した。ツーロンは横須賀の地勢に、よく似ていた。このあとパリに入り、初めグランドホテルに止宿したが、経費が莫大にかかるため民家を借り、料理人、小使いなどを雇い入れ、そこに寝泊りし、フランス側と製鉄機材買入れの交渉に入った。ヴェルニーは以前、清国の寧波《ニンポウ》にあって造船工場の建設に当たっていた人物である。  柴田日向守は小心|謹密《きんみつ》の人で「衣服冠り物とてすべて純然たる日本風を守り、決して外国に学ぶことなかれ。我が国威を殞《おと》し、彼が嘲笑を招くは実に国辱なり」といい、草履に代わって革靴をはくこと以外は、洋風を禁じた。  頭に黒塗りの陣笠、小袖、小袴、羽織に大小を腰に差した一行を見てパリ人は、 「オー、ジャポネー、アレー、シノア」  と叫び、どこに行っても犬に吠えたてられた。これには源一郎もすっかりまいり、 「なにとぞ洋服に」  と何度も日向守に嘆願したが、 「ならぬ」  の一言で拒否され、ついに「風俗は国家の憲章である。妄《みだ》りに変えるべからず」という日向守のかたくなな態度に、敬意を表するに至った。  ヴェルニーの献身的な世話で、商談は次々にまとまった。ヴェルニーはまだ二十八、九歳の若い士官のため、「小栗、栗本がロッシュの口車に乗せられて、こんな若造に頼んだが、本当に大丈夫か」と危ぶむ声もあったが、とんでもない。 [#この行1字下げ]「日本官吏ならば三月か四月も掛かるべき事を、僅か二週か三週間に処理してしかもその間、綽々《しやくしやく》余裕あるは一行みな舌を捲いて恐れ入り、初めて欧州人の処務(事務)に感服したるなり」  源一郎はすっかりヴェルニーに感服し、後にこう記している。一行は、製鉄所雇入れの建築課長、職工らを連れ十二月三日にパリを発ち、翌慶応二年正月十九日、横浜に帰ることができた。 [#この行1字下げ]「今日、盛大なる横須賀造船所が出来たるなれば、この所には永く小栗を初め柴田その外が尽力の記念を止めりというべき歟《や》」  源一郎は後年、こうも記している。  近代的マネジメント[#「近代的マネジメント」はゴシック体]  横須賀製鉄所、横須賀海軍工廠は幕府の遺産として明治新政府に受け継がれ、わが国の近代化に、大きな役割を果たしたことは歴史に明らかである。  この縁でかつて倉渕村は高崎市に合併する以前、横須賀市と友好関係を結んでいた。今もその交流が続いている。これも小栗の遺産の一つであろう。  さて、柴田日向守の努力で日本にやって来たフランス人技術者はヴェルニーを団長に二十人に及んだ。医官アバチャー、機械課長ノヘルゴートラン、建築課長フロラン、会計課長メルシェー、製図課長メランダ、それらの人々の名が『横須賀海軍船廠史』のなかに記されている。  坂本藤良は横須賀製鉄所については経営学的面から考察を加えている。  それは近代的マネジメントの導入ということである。  横須賀製鉄所よりひと足早く設立された横浜製鉄所は、設立当初、鉄工とか木工などの熟練者百人を採用したが、小栗は、鉄具鋳造局、黄銅鋳造局、鍛冶局、鑪工局、黄銅及び銅製造局、匠局の六つの局と庫の七部門を編成し、それぞれにフランス人と日本人の頭目をおいた。そして作業はすべてフランス人の技術を見習いながら、日本人頭目が指揮命令することとし、決して自分勝手に作業したり、他人の指揮を受けてはならないと規定した。  雇用規則もこまかく定め、夏は朝六時半、冬は朝七時半から作業を始め、午後五時に終了する。昼休みは午前十一時より午後一時の二時間とすると決め、三回その時間を守らない者は、解雇すると命令した。  清潔整頓、作業服の着用、一の日、六の日の休日、賃金は日本人頭目の評価で決めるなど、当時としては革命的なシステムを次々に採用した。  坂本藤良は「それは日本最初の近代的人事管理、パーソナル・マネジメントであり、日本における近代経営の夜明けを示すもの」と賞賛した。  横須賀製鉄所も勿論、このような新しい経営管理が導入された。小栗の発案というよりは、ヴェルニーの提案を小栗が採用したものだが、即取り入れる姿勢は、従来の幕閣にはない、おもい切った判断と実行力であり、小栗は鉄の意志で、国家的大事業に取り組んだ。  技倆伝習生徒や職工生徒の採用、社内教育にも着手した。慶応二年、この制度は実施に移され、伝習期間を三年間とし、数学、製図学、物理学、地理学、医学、化学、機械学、動植物学、材料学、造船学、フランス語などを教えた。  講義はフランス人によって行なわれるため、フランス語習得は必須で、朝から晩までのスパルタ教育であった。  小栗はこの間も免職、復職をくり返したが、横須賀製鉄所に関しては終始最高責任者の立場を貫き、日本国家百年の大計に立って事業を進めた。  もう一つ、小栗が強力に進めたのは商社の設立である。外国商人が勝手ばらばらに行なっている対日貿易を、幕府の手に取り戻すもので、日本の商社「商業・航海大会社」を設立して、その代表をパリに常駐させる。一方、フランスの商社「フランス輸出入会社」の日本駐在を横浜におき、双方で商取引させる構想であった。  これもクレーとの間で話し合われ、煮詰まったのが「兵庫商社」である。  兵庫商社は慶応三年(一八六七)四月に発表され、最初の日本における株式会社となった。小栗はこれをコンペニーと呼んだ。具体的に、それはどのようなものか。  小栗は大坂の商人二十人ほどを人選し、百万両を出資させ、貿易業務を担当させることにした。  この年六月六日、商社は設立された。役員は頭取が山中善右衛門(鴻池《こうのいけ》)、広岡久右衛門(加島屋)、長田作兵衛(加島屋)の三人で、肝煎として米屋、辰巳屋、平野屋、千草屋、炭屋など大坂商人が顔を並べた。  国内で消費する以外の物産を海外に輸出すれば、当たり前の価格より下値で売っても国益になる。しかし国内商品が不足にもかかわらず海外に売り渡せば、高値で売った場合、商人の利益になるが、国民には不利益であると独自の貿易論を展開し、だから商社を設立して協同で貿易に当たり国益と利益を一致させることが大事なのだと説いた。  明治の大実業家渋沢栄一も郵便局、鉄道の敷設などの提案と合わせ、小栗の先見性を高く評価している所以《ゆえん》である。  夢と消ゆ[#「夢と消ゆ」はゴシック体]  小栗はどこでこのような発想を次々に浮かべ、提案して行ったのか。アメリカで近代文明を学んだことがまずあげられる。加えてロッシュの提言、栗本鋤雲のサポートに負うところが大であったといわねばならない。  このことも外交文書に記されている。  フランス公使ロッシュは日本の政治体制を次のように見ていた。 「大君《たいくん》は帝《みかど》からの数世紀にわたる委任によって主権を与えられた事実上の王、諸大名の君主で、幕府直轄地の富をもって政府の経費にあてている。そのほかには、おのおの領地における大名の権力以外のなんの権力も持たない。大きな家臣は幕府になんらの貢献も強いられず、ただ戦時に臨時の軍役を提供するだけである。この点では十三世紀のフランス王の大家臣に似ている」  これは実に核心をついた見方であった。  ロッシュがいうように、幕府は日本の絶対的な統治者ではなかった。  日本が世界列強と伍すためにはフランスなみの統一国家が必要だとロッシュは説き、小栗に様々の助言と指導をした。  ロッシュの提言は次の四項目に分かれていた。  一つは行政組織の確立である。外務、内務、陸軍、海軍、財政、農商土木、司法、教育宗教など個別的な省を設け、専門的な職員を配置する。二つは対外的独立及び国内の秩序維持のため陸海常備軍の編成、三つは財政の確立、なかんずく貨幣制度の速やかな整備、四つは貿易の拡大と商社の設立であった。  それは内政、外交、軍事、財政など全般にわたる広い範囲のもので、一朝一夕に成るものではなかったが、朝廷のあり方についても重要な提言をしていた。  それは幕府の重要案件、たとえば開国や和親条約の締結がしばしば朝廷勢力から反対され、政治的空白と混乱を生んだことを指し、改善を求めた。  そして帝王の模範としてナポレオン三世をあげ、将軍慶喜を王とし、その下に独自の官僚機構、常備軍を作れと小栗に働きかけていた。加えて小栗が幕府の近代化を急がねばならない理由がもう一つあった。  薩摩藩がパリの万国博に代表を送り、「大君が持つ権利は元来掠奪したもので、その地位は大名と同じで、帝のみが日本の君主である」と反幕的な宣伝を行ない、フランス国首脳に微妙な影響が出始めていたことである。  日本の君主は将軍慶喜ではない。天皇である。徳川家は島津家と本質的に変わるものではないとする薩摩の戦略は、幕府の国際的信用を失墜させる要素を含んでいた。 「このようなことを許してはならぬ」  小栗は栗本鋤雲をフランス本国に派遣、幕府が日本唯一の政府であることを説き、徳川昭武の一行をパリに送り、懸命に挽回を図った。すべては時間との勝負であった。  小栗にとっての不安はイギリスが幕府を離れ、薩長の倒幕派を支持、強力に軍備の増強を始めたことである。  将軍慶喜が大政を奉還した時、小栗は江戸にいた。これで薩長の倒幕は目標を失い、慶喜を中心とする新たな政治、藩を郡県制に改め、共和政治とすることが可能だと慶喜は考えた。  薩摩の大久保、西郷はあくまで武力革命を目論み、戦争を指向していただけに、慶喜はこれで平和裏に新体制に移行できると期待した。もはや、それしか方法がなかったといった方がいいかも知れなかった。  ただし、この大政奉還は外交顧問のロッシュにとって寝耳に水の出来事だった。  ロッシュはこの時、静養のため熱海に滞在中で、意外な事態に驚き、すぐ江戸に引き返している。  しかし江戸城の空気は、かりに大政を奉還しても、江戸には旗本八万騎がおり、関西以北には二百余の譜代大名がいる、陸海軍もあり、海軍工廠、製鉄所もある、貨幣も意のままに発行できることなどをあげ、楽観視する向きが強く、薩長を支持したイギリスのパークスとて、薩長が幕府にとって代わるとはおもわなかった。小栗も同じだった。 「京都の動きが、日本の支配階層の全般的な同意を受けるようなものに発展して行くかどうか、それとも、たんなる一派の行動として非難されるかどうかは、なお将来に残されている」  と語り、決して楽観視していなかった。この記述は書記官のアーネスト・サトウの記録にあるもので、小栗の希望はまだ残っていた。  これを打ち砕いたのは、鳥羽伏見の開戦である。絶対的な優位を誇る幕府、会津軍が、惨敗し、錦旗《きんき》が翻ったことを知った時、小栗は呆然とし、おのれの努力が一体なんだったのか、目の前が真っ暗になるのを禁じ得なかった。  福地源一郎はこの時、大坂城にいた。源一郎が見たものはぶざまな幕府の崩壊だった。 [#ここから1字下げ]  奉行の詰所に入って見たれば、公用書類は取り乱し、誰か護身のためにとて携えたる拳銃もそのまま座隅に取り残しておりけり。なお笑止なりしは何やらん四角なる風呂敷包ありしを開いて見れば、鴨の切身に青菜と切餅とをおびただしく入れたる雑煮の用意にてありけり。我れら賜って久しぶりの御馳走に与《あず》からんと打笑いながら一同寄集まってかつ煮、かつ食いたり。  元締《もとじめ》(会計役)を呼び、外国方御用金は現に何程ありやと尋ねたるに御勘定所へ還納すべき分とも合わせて四百六十余万両ありとの事なりければ、銘々二十五両ずつ拝借の事に定め、そのほかは御用意金として元締に所持せしめ、無用の書類はすべて引き裂きて焼捨させ、粛然として大坂城を出でたりき。……  此時敗兵は既に城内に帰り、御玄関より御座敷に渉りては、会桑《かいそう》(会津、桑名藩兵)および諸隊の幕兵みな屯集してさらに秩序もなく、まして中の口(文武諸役人)の如き雑人躰《ぞうにんてい》のものが草鞋《わらじ》のままにて昇り降りなし、その混雑は一方ならず。…… [#ここで字下げ終わり]  将軍慶喜はもとより幕閣は海路、皆、江戸に逃げ帰り、右往左往する城内の模様や混乱ぶりを源一郎は冷ややかに描いた。  これは源一郎にとっても夢想だにしない光景であった。  幕府はこの時、主要閣僚は京都にいて、江戸とは十分な意志の疎通が行なわれていなかった。鳥羽伏見の戦争を知ったのは敗れて慶喜が逃げ帰ってきた後であり、幕府の機構はまったく機能していなかった。大政奉還は土佐の口車に乗った軽はずみな行為であり、小栗が京都にいれば強く反対したはずだった。 [#改ページ]   十一 小栗失脚  狂するがごとく[#「狂するがごとく」はゴシック体]  将軍|慶喜《よしのぶ》が江戸城に逃げ帰った時、小栗は激怒した。在京の大名及び旗本を集めて開かれた評議の席上、小栗は進み出て、 「我等に反逆の名を附せらるるの理なし。非はすべて彼等にあり」  と顔を硬直させて慶喜に詰め寄った。この事は冒頭に書いた。  小栗は色をなして、断固戦うことを主張した。しかし小栗が「我れに方策あり」と具体的な戦略を述べたにもかかわらず、慶喜を説得することはできなかった。  この時の江戸城会議は十三日から二十一日まで九日間に及んだ。 [#ここから1字下げ] 十三日、登城、御前へ召出され御直《おんじき》に尋《たずね》等これあり。見込み申上ぐ。夜九半時過ぎ退出 十四日、登城、御前へ召出され種々評議これあり。暁《あかつき》七時退出 十五日、登城、御用部屋にて評論、夜九時退出 十六日、登城、暁六時退出 十七日、同、夜六半時退出 二十一日、昼より登城、暁八時退出 [#ここで字下げ終わり]  外国方の重臣だった水野筑後守の日記である。(蜷川新『維新正観』)  この会議で小栗の前に大きく立ちはだかったのはライバルの勝海舟である。  勝は陸軍総裁の任にあり、その言動が大きな影響力を持った。  勝の意見も決して非戦ではなく、海軍力は圧倒的優位にあり、艦隊を出動させれば薩長軍に大打撃をあたえることができるとしたが、問題は勝敗の行方が厳しいという点だった。  薩長にはイギリスが就き、幕府にはフランスが就こう。どちらが勝っても得するのは外国であり、しかも錦旗が薩長にある以上、幕府の不利は免れないとしたのである。  将軍慶喜はこの頃、極度の不安におびえていた。毒殺を恐れ、殿中の膳部から差し出す食事に手を付けず、市中の料理屋から秘かに取り寄せて食べていた。  鳥羽伏見の戦いで将兵を大坂に置き去りにした人物である。勝の意見に戦意喪失、顔面蒼白となり、狼狽して会議の席から姿を消した。慶喜は修羅場を乗り切れるほど強い人物ではなかった。  歴史は一つの資料によって大きく変わる。  外国の植民地になる危険があるとする勝の主張は事実と大きく異なっていた。蜷川新も指摘しているが、薩長軍が江戸城攻撃をしようとした時、イギリスが待ったをかけていたのである。  英国公使パークスは東海道総督参謀|木梨《きなし》精一郎に「戦争の影響で横浜の治安が乱れ貿易が衰微するのは好ましくない」と和平を求めたのだ。  勝がいう薩長にイギリスが就くという論理は誤りで、英国政府は中立を表明していたのである。フランスも同じような態度だった。  ならば慶喜のとるべき道は狼狽して姿を消すことではなく、毅然たる態度で事態の収拾に当たることだった。慶喜と勝は徳川家のみの保身に終始し、その結果、小栗を死に追いやり、東北、越後に戦火が及ぶ最悪のケースを招いた。幕末もまた危機管理能力欠如の時代であり、そのことによって幾多の人命が失われた。  世紀末とは、このような時代をいうのだろうか。 [#ここから1字下げ]  慶喜さんが京都から江戸に帰って来たという時は、さあーたいへん。朝野とも物論|沸騰《ふつとう》して、武家はもちろん長袖《ちようしゆう》の学者も、医者も、坊主も、みな政治論に忙しく、酔えるがごとく狂するがごとく、人が人の顔を見れば、その話ばかり、幕府の城内に規律もなければ礼儀もない。平静なれば大広間、溜《たまり》の間、雁《がん》の間、柳の間なんて、大小名のいるところで、なかなかやかましいのが、まるで無住のお寺をみたようになって、ゴロゴロあぐらをかいて、どなる者もあれば、ソッとたもとから小さなビンを出して、ブランデーを飲んでる者もある、という乱脈になり果てた……。  いろいろ策士、論客、忠臣が躍起となって上方の賊軍が出発したから、なんでもこれは富士川で防がなければならぬとか、イヤそうではない。箱根の嶮岨《けんそ》に拠って二子山の所で賊を皆殺しにするがいい、東照神君《とうしようしんくん》三百年の洪業《こうぎよう》は一朝にして捨てるべからず、われわれ臣子の分として、義を知るの忠臣となって、生ける恩を知るの忠臣となって、死するにしかずなんて、種々さまざまの奇策妙案を献じ、悲憤慷慨《ひふんこうがい》の気炎を吐く……。 [#ここで字下げ終わり]  このような有様で、とても本気で戦争できる状態ではなかったと福沢諭吉は『福翁自伝《ふくおうじでん》』のなかで述懐した。  徳川三百年の幕藩体制は、長い鎖国で平和をむさぼっていたが、いったん外圧が加わると、収拾のつかない混乱になり、国内が血で血を洗う内乱になってしまった。  仮に小栗の反撃策が採用された場合、日本はどうなっていただろうか。  小栗はこの時期の記録を一切残しておらず、伺い知ることはできないが、蜷川新がこの問いに対して一つの見解を示している。  蜷川は小栗の策を慶喜が採用し、実行に移していれば、薩長は敗れ、その後起こった東北戊辰戦争、箱館戦争もなく、日本は少ない犠牲で近代国家に移行できたと断じる。  客観的に見て、可能性はどの位あったかは、意見の分かれるところだが、少なくとも江戸占領は免れ、外交交渉によって東北越後の戦いもなく、幕府に薩長も組み入れた形の郡県国家が誕生したであろうことは、容易に想像できる。その時、慶喜がナポレオン三世のような皇帝になっていたかどうかは、疑問である。  誰を中心にすえるかで白熱した論議はあったろうが、いずれにしても薩長藩閥政治ではなく、日本列島をまんべんなく結集した新たな政治体制が、できていたのではないかとおもわれる。  その後の戊辰戦争を戦う仙台や米沢藩、南部藩の参謀たちの思考から、そのことを伺い知ることができる。一つ具体的な形で示すと仙台藩参謀玉虫左太夫の理想は、共和政治の実現であり、幕府の再興ではなかった。  全国民的な英知で、明治国家をつくることができたかも知れない。  大村、江藤の述懐[#「大村、江藤の述懐」はゴシック体]  小栗に関する後日談が一つある。  薩長軍の戦略策定に当たったのは長州の大村益次郎《おおむらますじろう》である。  上野の彰義隊が大村の戦略で壊滅した時、薩長軍参謀が集まって、あれこれ論じたことがあった。  昭和八年に東大史料編纂官花見朔巳が監修した『異説日本史』に、その模様が記されている。少し重複するが収録する。 [#ここから1字下げ]  上野戦争後、大村益次郎や江藤新平《えとうしんぺい》などという参謀軍監が集まって、いろいろの話をしていると、大村が論じていうには、幕府でもし小栗上野介の献策を用いて、実地にやったならば、我々はほとんど生命がなかったであろう。それは何故であるかというに、官軍が東に向って来るという事になってから、柳営《りゆうえい》(将軍の居所)で一日、大評議があった。その時、小栗上野介の献策は、この度、有栖川宮が大総督となって、関東御征伐ということに、決したということであるが、しかし、その率いる所の兵員は僅に三万人を越すまい。  よって、箱根の山の関門を開いて、江戸に官軍を入れて仕舞い、その上で、函嶺を閉ざし、また、東海道方面は、木曾路を塞《ふさ》いで、ことごとく官軍を江戸に入れ置いて戦えば、皆殺しにして終《しま》うことは容易である。しかして、軍艦の一半をもって駿河を扼《やく》し、他の一半をもって摂海《せつかい》を衝《つ》く。さすれば、関東の諸侯は大抵徳川家の味方になるであろう。こん度の事を関ケ原の役と見れば、関西にも譜代大名もあれば親藩もある。また外様大名の中でも、幕府に志を寄せておるものも絶無ではない。よって、この挙をもって徳川家恢復の途も立つであろうからということで、一同、下城して終った。  ところが、夜が明くると、僅々《きんきん》一夜の内に、その議が反覆して仕舞い、小栗派ならびにこれに加担したものは、遂に役儀まで免ぜられて仕舞ったが、如何にも敵ながら気の毒な次第であったというと、この声に応じて、江藤がいうには、「小栗はそういう間抜けだからいかん」という。「なにが間抜けだ」と反駁《はんばく》する。  その所で、江藤がいうには、「議論が一決したからといって、下城して安々寝る様な間抜けだから、反覆されるのも当然のことである。この危急存亡の場合に、呑気《のんき》な考えを持ってはいかん。議が一決したならば、そこで直ちに部署を定め、誰は何の兵隊をもって、何方に当れという部署を定めてしまって、直ぐそれを発表せねばならぬ。それをボンヤリ帰って、安閑《あんかん》と寝るというような間抜けでは、とうてい出来よう筈がない」といったので仲々、話が面白かったということであり、江藤のこの話を聞いたものは、皆一様に江藤の機敏に感じたということである。 [#ここで字下げ終わり]  このような話だが、なかなか面白い逸話である。  小栗が前面に立ちはだかれば、薩長は危なかったという大村の話は、本当であろう。また江藤新平が、「小栗があきらめたのは間抜けだ」といったことも、なるほどと、おもうところがある。 「とことん、何がなんでもやり抜く」  この時ばかりは、小栗に、その姿勢がなかったということか。  なぜだろうか。  海軍副総裁|榎本武揚《えのもとたけあき》は艦隊を率いて恭順を拒否していたし、歩兵奉行大鳥圭介も兵を集め幕府再興を目指していた。  慶喜が恭順した以上、先は見えていたに違いないが、どこか小栗らしからぬ行動であった。上州権田村で梟首《きようしゆ》された時も似ている。会津を頼って再起する途《みち》があったのにもかかわらず、自ら出頭して斬られている。寝業師《ねわざし》の勝海舟にくらべると、剛直な割りに淡泊というか、ぽきっと折れやすい一面が、あったようにおもわれてならない。  小栗の出自[#「小栗の出自」はゴシック体]  人間の行動や思考の形式は、その人の出自と深い関連があるといわれる。小栗と対比される勝は幕政を容赦なく批判し、誰の前であろうが忌憚《きたん》のない意見を述べる点で、双璧《そうへき》であった。  小栗と違って海舟の祖は越後生まれの農民、米山検校《よねやまけんぎよう》銀一である。生来の盲人で、江戸に出て検校となり、莫大な金をため込み、三万両で旗本|男谷《おたに》家の株を買い、末子の平蔵に継がせた。  平蔵の三男|小吉《こきち》は旗本勝家に婿入りし、その長男に生まれたのが麟太郎《りんたろう》、のちの海舟である。母方は近江国の出身で、天正年間以来、徳川家に仕えたといわれるが、わずかに四十一石余の微禄で、徳川家の御高恩をこうむったという家ではない。  海舟にとって、徳川家は一歩距離をおいた存在だった。  だが小栗は違う。  小栗の祖は、徳川家康に直接つながる。本来の姓は松平《まつだいら》で、初代は松平|隼人正《はやとのしよう》といった。  三代吉忠の時から祖母方の小栗姓に替わっている。吉忠の子|忠政《ただまさ》は武勇の士で、青年の頃から家康に仕え、忠義|一途《いちず》、家康に絶大の信用があった。  元亀《げんき》元年(一五七〇)姉川《あねがわ》の合戦の時である。  家康の本陣が急襲され、敵が攻め込んできた。家康のそばにいた十六歳の忠政は槍を振るって敵と渡り合い、見事討ち取って家康の危機を救った。  以来、忠政は、あらゆる戦場で、一番槍を達成し、「又も一番、又も一番」と話題になり、家康の命令で「又一《またいち》」を名乗るようになった。初代又一は一番槍にとどまらず、武勇伝がほかにもあった。秀吉の死後、家康が供奉《ぐぶ》三十六人を従えて大坂城に出仕した時、大坂方が入城を拒む事件があった。この時、家康は榊原、井伊、本多、小栗の四人を太刀持に選び、入城している。  また大坂夏の陣では、船場の橋が焼け落ちたかどうか、又一が単騎、敵前に進んで偵察した。これを見た敵将上条又八が「かかる勇士を討ち取るべからず」といって、弓を射掛けるのを禁じ、数千の敵兵が、じっと又一を眺めたというエピソードもある。  又一は元和《げんな》二年(一六一六)六十二歳で没したが、小栗家は代々又一を襲名、先祖の武勇を称えて来た。養子が又一を名乗ったのも、これに由来している。  初代から数えて小栗は十二代である。父忠高は新潟奉行をつとめ、小栗は三十三歳で幕府目付に昇進、渡米し、常に幕閣の一翼を担って来た。  誰がどういおうが、小栗には又一以来の幕臣の血が、脈々と流れていたのである。  小栗は慶喜が江戸に帰って五日後に、罷免《ひめん》されている。プライドの強い人間ほど折れ易いともいう。緊張の糸がある日、突然ぷっつりきれてしまうというのである。  その後の処理がライバル勝海舟に一任された時、小栗にこの現象が起きたのではないか。そんな気がする。  小栗が政治に携わったのは、万延《まんえん》元年に目付として訪米して以来、わずかに九年に過ぎない。  帰国して外国奉行となり、翌|文久《ぶんきゆう》元年七月にこれを辞し、小姓組番頭となり、文久二年六月に勘定奉行、正式には勘定奉行勝手方、閏八月に町奉行、十二月にふたたび勘定奉行、この時は歩兵奉行を兼務するが、三年四月には辞任、七月に陸軍奉行並となるが、間もなく辞し、元治《げんじ》元年八月にふたたび勘定奉行、十二月軍艦奉行、翌二年にこれも免ぜられ、慶応《けいおう》元年、三たび勘定奉行となり、海軍奉行並も兼ね、二年十一月には陸軍奉行並も兼ねるという目まぐるしさである。  生涯を通じて七十余回の貶黜《へんちゆつ》(官位を落し退ける)に遭ったという。  これは何を物語るのか。  上司や同僚と融和《ゆうわ》を欠くことが多く、すぐ罷免されるが、かといって他に人物はいない。「やはり小栗だ」ということになったのであろう。 [#ここから1字下げ]  小栗が勘定奉行を勤めていた時のこと。先例によれば、国費の精算書を老中列座の席上で朗読報告せねばならなかったのに、彼は朗読せず老中に向かって、 「今これを朗読しましたところで、皆様にはお分かりにならぬと存じます。これを検閲に供しますれば十分でしょう。別に無益な朗読の必要もございますまい。私は決して御為にならぬような事を致す人間ではありません。そうお考え置きください」  と言ったという。かように自信強く、上に対しては剛直にして信ずるところをいった。かかる場合、現職を賭けた。時には生命をも賭けた。それで、諧謔《かいぎやく》(冗談)和気にして朋友を逸《そら》さぬという一面もあったが、おおむね人に好かれず畏《おそ》れられた。(塚越停春楼『読史余録』) [#ここで字下げ終わり]  これも『異説日本史』の逸話である。  このため上司や配下にうとまれ、若年寄や老中になれなかったわけだが、しかし勘定奉行の方が、若年寄や老中よりも権限を持っており、ロッシュとともに進めた日本改造計画は、小栗ならではの業績であり、必ずしもこの評は当たらない。  この後、小栗はおもいもよらぬ惨死を遂げるが、小栗と勝海舟は、どこで逆転し、一人は長い間、逆臣の汚名を受け、一人は日本の救世主の評価を得ることになったのか。  痩せ我慢の説[#「痩せ我慢の説」はゴシック体]  司馬遼太郎は海舟の役割を西郷隆盛や横井小楠《よこいしようなん》、坂本龍馬らに、巨大な知的刺激を与えた点にあると述べている。  海舟は唯一、幕臣のなかで薩長の実力者たちと話し合える土俵を持っており、幕府|瓦解《がかい》の際も徳川家だけは静岡の一大名として残している。この海舟を批判したのが福沢で、痩《や》せ我慢《がまん》の士風を傷つけたと激しく攻撃したのは有名な話である。  海舟は徳川家を救い、江戸を戦火から守った功績は大だが、そのあと戊辰東北戦争、さらには箱館戦争を引き起こし、会津だけで三千余人、全体を通じれば万余の死傷者を出し、東北の人々が「白河以北|一山百文《ひとやまひやくもん》」の汚名《おめい》に泣いた歴史を見ると、海舟の功績は大と手放しでいえるものではない。 「そんなところまでは面倒見切れねーよ」  海舟はべらんめえ口調で言うかもしれないが、小栗ファンにとって、海舟は許しがたい存在であり、その比較論もまた痛烈なものがある。  蜷川新は次のようにいう。 [#ここから1字下げ]  勝海舟に至っては、しからば如何、彼れは外交軍事財政の実績に付いて、小栗上野介と比すべくもない。勝は小栗に比較し得る程の要地に立たなかった。彼は自己宣伝や、世渡りや、詩文においては、小栗に遥《はる》かに勝っておった。しかしながら、勝海舟は、小栗上野介の如き熱烈なる忠誠心を有していなかった。  彼は公然敵たりし薩長の親友であり、かく当時の味方の衆目よりことごとく見られておった。徳川政府の内事は、彼によりすべて敵方に洩れると徳川方や会津の人は皆信じていた。味方より見て、彼は信頼すべき人ではなかった。徳川慶喜でさえも、実は彼を信ぜし人ではなかった。これ慶喜が、後年その最も信じ、かつ最も愛せる近親の人に洩らされた所である。  当時大久保某という一人の旗本があった。勝の心事行動を憎み、一日小栗に向っていわく「勝は有害な人間である。我は彼を除かんと欲す」と。小栗は黙々としてその可否に付て一言するところはなかった。しかしながら、突如としてこの人の腰に差せる大刀を引抜き、その鋭利の切っ尖を静かに眺め「貴殿の刀は好く切れそうだ」と。  これにてこの大久保某は、勝を切るの決心をなし、附狙《つけねら》いしも、終に果さざりしとの事であった。これこの人が、余の親しめる人に後年、談《かた》りし所である。勝海舟は、幕末の名士栗本|鋤雲《じようん》よりも、深く憎まれた人であった。  勝海舟は、江戸城引渡に付ては、彼の英才と人格とをもって、敵方の大立物西郷を敬服せしめ、平和裏に江戸城を引渡し、百万の人民を戦乱より救いしが如くに、世人よりは六十年来思われておるけれど、尾佐竹猛氏の大正十五年十二月発行『幕末外交物語』第二八二頁及び吉田東伍博士著『維新史八講』第二二九—二三〇頁に記してある所によれば、西郷は当時、戦闘を欲したのであり、ただ英公使パークスより抗議せられて、これを思い止ったのである。  この事、すでに尾佐竹、吉田両史家の研究に成る史実によりて明白なるにおいては、勝にこの引渡の件に付て、従来世俗に伝えられたるが如き、偉大なる人格的政治家ともいった様な大功業は、なかりしものと断じ得る。  勝海舟は本来が徳川氏の譜代の臣下の家に生れ来りし人にあらずして、その三代目前の祖以後に、低い士分の株を買い得て初めて士に列したりし人である。その血は、小栗の如き武士らしき忠烈をもって充ち満ちおらざりしこと、これ是非もなし。福沢諭吉が「彼に痩せ我慢なし」として明治時代に有名になる「痩せ我慢の説」を公にして、もって彼れを強く攻撃したりしは、学者らしき正しき男らしき大胆の論評である。  勝海舟が後年に至り、小栗を目して「ただ徳川氏一点張り」と批評せしが如きは、あまりに身の程知らず驕慢《きようまん》である。彼は小栗の主張したる「世を郡県に改めざる可らず」との主張に対しても、当時は小栗の面前に、これを論争せずして黙々し、小栗死せる後、小栗を冷評して「国家本位の人にあらず」とし、おのれ独り卓見者《たつけんしや》でありしかの如くに宣伝するは、これけだし人物の小を示すものである。 [#ここで字下げ終わり]  身内の比較論なので、感情的表現が目立つのは避けがたいが、小栗派や会津藩が海舟をどう見ていたかを知る資料の一つである。  同じような論調が大正時代に活躍した中里介山《なかざとかいざん》の『大菩薩峠《だいぼさつとうげ》』にある。 [#ここから1字下げ]  小栗の名は、徳川幕府の終りにおいては、何人の名よりも忘れられてはならない名の一つであるのに、維新以後においては、忘れられ過ぎるほど、忘れられた名前であります。  事実において、この人ほど、維新前後の日本の歴史に重大関係をもっている人はありません。それが忘れられ過ぎるほど忘れられているのは、西郷と勝との名が急に光り出したせいのみではありません。  江戸城譲り渡しという大詰が、薩摩の西郷隆盛という千両役者と、江戸の勝安房《かつあわ》という松助以上の脇師と二人の手によって、猫の児を譲り渡すように、あざやかな手際で、幕を切ってしまったものですから、舞台は二人が背負って立って、その一幕には他の役者が一切無用になりました。  歴史というものは、その当座は皆勝利の歴史であります。勝利者側の宣伝によって歴史と人物とが、一時|眩惑《げんわく》されてしまいます。そこであの一幕見だけをのぞいた大向うは、いよう御両人! というより外のかけ声が出ないのであります。しかし、その背後に江戸の方には、勝よりも以上の役者が一枚控えて、あたら千両の看板を一枚台無しにした悲壮なる黒幕があります。  舞台の廻し方が、正当(或いは逆転)に行くならば、あの時、西郷を向うに廻して当面に立つ処の役者は、勝でなくて小栗でありました。単に西郷といわず、所謂、維新の勢力の全部を向こうに廻して立つ役者が小栗上野介でありました。 [#ここで字下げ終わり]  中里介山が活躍した時代は、大正時代である。司馬遼太郎よりはるかに前に介山が「海舟より以上の役者が小栗だ」と論じていたのは注目に値する。人物論は多分にその人の感情や好みが入る。検証する資料の点検、周辺の取材も完璧ということは有り得ず、どこかで、こうではないかと断ぜざるを得ない。だから人によって、見方が正反対に分かれることすらあり、小栗と海舟の対比は今後も続くことは間違いないが小栗の復権が強く望まれることはいうまでもない。 [#改ページ]   十二 大英雄にあらず  徳川中心主義[#「徳川中心主義」はゴシック体]  海舟に厳しい意見を二、三紹介したが、小栗に対する批判も当然のことながらある。  司馬遼太郎は、 「小栗の心事は明快でした。武士として説くべきことを説いた。容れられなかった以上は、わが事は畢《おわ》ったわけで、それ以上のことはしません。政権が消滅した以上、仕えるべき主もありませんから、江戸を去り、上州の権田村というかれの知行地に引きこもりました」  と、淡々と述べたが、歴史家中村孝也は厳しい。 [#ここから1字下げ]  小栗上州は徳川氏の臣下であった。祖先又一三河より出て東照公家康に従い、各地に転戦して、一番槍の功名を顕《あらわ》してより三百年、小栗家は歴世忠実なる徳川氏譜代の臣下であった。わが忠順なる小栗上州忠順が、三百年後に生れて主家の末路を拯《すく》おうと欲し、苦心惨澹《くしんさんたん》、ために「小栗は国家的天才に非《あら》ず」と評せられるのを顧《かえり》みなかったゆえんは、一に彼が徳川氏の臣であり、徹頭徹尾、徳川中心主義を固持《こじ》して放たなかったからである。  彼は決して国家|経綸《けいりん》の才のなき凡庸者の流《たぐい》ではなかった。しかもその終《おわり》を全うせずして、新時代の犠牲となって斃《たお》れたゆえんは、まことに一に彼が徳川中心主義を固持することが、あまりに執拗であったからである。彼は時勢を解《かい》しておった。けれども時勢を解しなかった。時勢を解しておった故に、彼は衆に先んじて熱心なる開国説を唱え、盛んに外国の文物を輸入し、極端に急激なる改革家として、財政を整理し、軍制を釐革《りかく》(改革)し、奔湍《ほんたん》(はやせ)の如くに急変してゆく時勢の新境遇に順応しようと試みた。  しかしながら、彼の熱心なる駛走《しそう》(疾走)にかかわらず時勢の進転急変は一層|速《すみや》かであった。故に彼があくまで徳川幕府を維持しながら、幕府を中心として新時代を開こうと試みた努力は、あたかも空拳《くうけん》を揮って江河《こうが》の流を転じようとするが如く、労してその功を奏せず、彼は奔《はし》り、かつ躓《つまず》き、ついに全く立脚《りつきやく》の地を失って押し流されたのであった。  即ち慶喜公恭順、江戸開城の大詰に至るまで、主戦党の驍将《ぎようしよう》として、旗幟頗《きしすこぶ》る鮮明、ついに榛名山中の僻邑《へきゆう》に捕えられるに至ったのは、畢竟《ひつきよう》(結局)、彼が時勢を解せず、徳川中心主義を固持して放たなかったからである。しかしながら、過《あやまち》を見てその仁を知る。  その失敗は、偶々、彼の節義をして大ならしむるゆえんでなくして、何であろうぞ。彼を目して徒《いたず》らに孤憤凡介《こふんぼんかい》の士となすなかれ。滔々《とうとう》たる天下、あまりに賢明なる君子のみが充満するにあたり彼のごとき、主義の人、節操の人、意志の人、健闘の人を追懐し得るのは、吾人の幸福にしてまた光栄である。(「歴史と趣味」昭和二年十月号) [#ここで字下げ終わり]  そういわれれば、徳川中心主義の一面はあるが、幕閣の一人としてそれは当然のことであり、そのことまでは中村も批判はしていない。徳富蘇峰《とくとみそほう》の論評もある。 [#この行1字下げ] だれが何と申すも、海舟先生は、幕末の偉人である。このごろは、世間に往々反海舟熱を煽《あお》り、特に小栗上野介などを持ち出して、かれこれ対照する人もある。されど勝は勝であり、小栗は小栗である。小栗が偉いにせよ、偉からざるにせよ、勝はその人の価値に何も関係ない。牛肉がうまきゆえに、鯛はうまからずというが如き論法は、世の中にあり得べき様がない。(『海舟全集を読む』「東京日日新聞」 昭和五年四月十八日号)  小栗などを持ち出して、という表現に蘇峰の小栗観がある。  熊本に生まれ、熊本洋学校から同志社に学び、雑誌『国民之友』を創刊した蘇峰は何度も海舟に逢い、幕末維新を聞いている。  蘇峰が垣間《かいま》見た海舟は一介の書生でも、天下の大政治家でも、わけへだてなく待遇した。蘇峰二十五、六歳、海舟六十歳前後である。 「先生は立てば小兵《こひよう》で、別段偉丈夫らしくは見えぬが、ただ五尺の短身、すべてエネルギーというべきもので、どこともあれ、手を触るれば、たちまち火花を飛ばすごとき心地がした」と印象を語り、「その上げたり下げたり、人をひやかすことの辛辣《しんらつ》手段に至っては、いかなる傑僧の毒語、虐舌《ぎやくぜつ》も及ぶところではあるまい」と心酔した。  蘇峰の見解は、海舟びいきのなせる術《わざ》といえる。かくて蜷川新の小栗|擁護論《ようごろん》は一段とオクターブが上がる。 [#ここから1字下げ]  小栗は大学者にあらず、大英雄にあらず、大聖大徳《たいせいたいとく》にあらず。しかしながら、政府の当局として、熱烈なる事業家であり、重要なる事績をあげたる経世家《けいせいか》であり、世界の大局を達観せる非凡の人であり、日本の国家国民の安栄を念としたる愛国家であり、意思強く、主張固く、死を怖《おそ》れず、生を偸《ぬす》まず、私利を営まず、権勢に阿《おもね》らず、政治家として、軍将として、文治の能吏として、一個の良民として、信頼するに足るべき一大人物であったこと疑うの余地はない。  彼もとより、当時の小人輩《しようにんやから》の批評せしが如き、敵のみあって味方なき小人物にあらず、人を見るの明なき凡人にあらず。私利を図れる小人にあらず。西洋かぶれのハイカラにあらず。世と推移する俗物にあらず。かかる一大人物に対して、文士中往々「時代を解《かい》せざる偏見者」の如く批評するものあるは、薩長本位の不謹慎なる批判をなすの徒というべきである。 [#ここで字下げ終わり]  蜷川新、独特の論調だが、説得力はある。  江戸開城の内幕[#「江戸開城の内幕」はゴシック体]  ここで江戸無血開城は、海舟と隆盛の腹芸ではない、英国公使パークスの意向であったとする説を詳しく検証しておきたい。  イギリスの外交官、アーネスト・サトウの日記『一外交官の見た明治維新』にそのことが書かれている。  西郷と大久保は江戸城総攻撃を考えていた。幕府を完全に叩きのめすには、江戸城を攻め落とし、慶喜を血祭りにあげるしかない、二人の考えは一致していた。二人はひどく慶喜を恐れていた。  慶喜がその気になれば、大逆転が起こることも十分にあると見たためで、慶喜の首を取るまでは、おちおち夜も眠れない心境だった。 「徳川氏|顕然内在《けんぜんないざい》のうちは、諸藩皆、徳川氏に心を寄せ、表面では王化《おうか》に服しているが、内心は半信半疑《はんしんはんぎ》の態《てい》」と西郷は、のちに語っている。  西郷は江戸城攻撃に先立ち、先に触れたように東海道先鋒参謀木梨精一郎を横浜に派遣し、英国公使パークスに了解を求めさせた。たとえ江戸が戦場になっても横浜在住の外国人に一切、危害が及ぶことはないと木梨が説いた。  ところが案に相違し、パークスは慶喜が恭順の意を表した以上、万国公法に照らして、死罪はあり得ないと語り、戦乱による貿易の衰微を憂慮したのである。  パークスがこのような勧告をしたのは、慶喜が恭順した以上、大勢は決したと判断したためで、薩長政権誕生にブレーキをかけたわけではなかった。  その頃、フランス公使ロッシュはどうしていたのか。  実はフランス内部に重大な変化が起こっていた。  フランスの対日政策が大きく変わり、ロッシュに帰国命令が出ていたのである。小栗にとって、これほどの不運はなかった。  外交は猫の目のように変わる。フランス本国で政変があり、ロッシュの支持者ドルアン・ドゥルイ外相が辞任、ドゥ・ムスティエが新外相に就任していた。新外相は薩長の動きを重視し、ロッシュの幕府支援策を否定したのである。  これによってフランスの対日政策は百八十度転換を遂げ、対英協調を主張するに至った。  ロッシュは間もなく帰国する身であり、慶喜の恭順が変わらない以上、もはやいかんともしがたかった。  幕府にとっての救いは、パークスが江戸城攻撃に難色を示したことで、海舟はパークスを味方につけて、隆盛との政治決着を図ることになる。フランスが腰を引く状況のなかで、小栗の出る幕はなかったといってよい。  かくて小栗は、権田村に退隠する。  対馬でも敗北[#「対馬でも敗北」はゴシック体]  鉄の意志の持ち主と人はほめるが、エリートである小栗は、海舟のようにしたたかに生きることはできなかった。一度|挫折感《ざせつかん》を味わうと、すぐには立ち直れない弱点があった。過去にも同じようなことがある。  小栗がアメリカから帰って外国奉行に就任し、三カ月後の文久元年(一八六一)二月、対馬《つしま》にロシア国軍艦が入港した。北辺にロシア艦が姿を現わして久しいが、対馬は初めてである。ロシアの狙いは、日本海に足掛かりをつくり、有事の際に欧州と日本、欧州と中国の貿易を妨害することにあった。  ロシア軍艦「ポサドニク」の艦長ビリレフは強引に兵を上陸させ、島の測量を始めた。対馬藩が退去を要求してもビリレフは応じない。「大砲五十門を献上する代わりに、海岸をロシアの海軍基地として租借したい」と無理難題を吹きかけた。  上陸したロシア兵は対馬島民の一人を射殺、一人を人質として船に連れ込み、一歩も動こうとしない。  小栗はこの問題の処理を命ぜられた。小栗が品川を発ったのは文久元年四月六日である。五月上旬、対馬に着いた。  早速、目付の溝口|八十五郎《やそごろう》と「ポサドニク」に乗り込んでビリレフに退出を求めた。ビリレフは「我々はロシア海軍のリハチョフ司令官の命令でここに来ている。対馬藩主|宗義和《そうよしかず》以外の誰とも交渉に応じない」の一点張りで、ラチがあかない。  交渉の席上、小栗は「我を射ち殺せ」と語気鋭く迫る場面もあったというが、結局、手も足もでず、江戸に引き返している。  小栗は我が国の軍事力の弱さを痛感するとともに、対馬を一小藩に統治させておくことの問題点を指摘、幕府直轄にすべきだと提言したが、容れられないことが分かるや、さっさと外国奉行を辞職してしまった。 「上司が何一つ上申を聞いてくれない」と水野|筑後守《ちくごのかみ》に、胸中を吐露《とろ》した手紙を残しているが、この程度のことで職務を投げ出したことについて、批判もある。その筆頭は、ほかならぬ勝海舟である。彼があと始末をしたからである。  海舟は『氷川清話《ひかわせいわ》』で、次のように述べている。 [#ここから1字下げ]  外交家の秘訣は、毒をもって毒を制するということがある。これも文久の昔の話だ。あるときロシアの軍艦が対馬にやってきて、軍艦の修繕がしたいという口実で、その実、途方もないことをするではないか。海岸を測量したり、地図を作ったり、山道を切り開いたり、畑地を作ったり、粗末ながらもとにかく兵舎ようのものを建てたり、それは実に傍若無人《ぼうじやくぶじん》の挙動をしたのだ。  それが始めは、対馬の尾崎浦という所へ投錨したのであったから、土地の役人は、開港場でないところへ軍艦を寄せることを詰問しようと思って、小舟に乗って軍艦の一、二町手前までこいでゆくと、軍艦からは、三そうのボートへ水兵を乗せて、この小舟を取り囲んで、水兵は、やにわにこっちの舟に乗り移って、よろい一りょうと槍九すじ、そのほか鉄砲脇差などを強奪して、本艦に持って行ってしまった。……  そうこうするうちに、またほかの軍艦がやって来た。この軍艦からは、七十名ばかりの水兵を、小舟越えという所へ上陸させて、松や杉などの立木を勝手に伐採して、何食わぬ顔で本艦へ運んでしまった。この体を見た番船は、不届者めとののしりあって、本艦へ掛け合いに出かけると、軍艦からはポンプを仕掛けて、海水をビュウビュウと雨のように注ぎかけて、さっさと、どこかへ行ってしまった。まあ途方もない軍艦ではないか。  それからというものは、ロシアの軍艦は、幾回もやって来たが、一番後に来たのなどは、軍艦を修繕するといって、今いったとおり粗末ながらも兵舎めいたものを建てて、容易に引き揚げる模様がなかったから、そこで、いよいよやかましい掛け合いになった。  ところが今度は、向こうでもいっそう図太い覚悟をしてきたものと見えて、「私どもは、上海におりまする総督リハチョフの命令によって、かくのごときことを致すものであるから、これについて、もしご異存あれば、万事上海の方へお掛け合いなさるのがよい。私どもの知るところではござらぬ」とすましこんでいて、何ともはや、手のつけようがなかった。  その上、彼らがいうには、「フランスは、今から一カ年も経てば、地中海の方(スエズ運河)を掘り抜いて、シナへの海路もそれからは自由になるから、自然、対馬付近は、しばしば航海することとなって、結局、この地を占領するようになるのは、必然の次第でござる。しかしながらわがロシアにおいては、他国の領域を奪い取るなどのことは、誓っていたさないのみならず、貴国のおんために、大砲五十丁を対馬へ備え付けて、それを献納いたしたいから、この儀は他国へは一切秘密に願いたい」などといっていた。  さあここだ。対馬は、このとき事実上すでに、ロシアのために占領せられたも同様であったのだ。つまりこういう場合こそ、外交家の手腕を要するというものだ。  ところでおれは、この場合に処する一策を案じた。それは当時長崎におった英国公使というのは、至極《しごく》おれが懇意にしておった男だから、内密にこの話を頼み込み、また長崎奉行からも頼みこんだ。そうすると露国の不条理を詰責して、訳もなくロシアをして、とうとう対馬を引き払わせてしまったことがあった。これがいわゆる毒によりて毒を制するというものだ。  それをもしも当時の勢いで、日本が正面から単独でロシアへ談判したのなら、ロシアはなかなか“うん”とは承知しなかったのであろうよ。  仮にそのとき談判が調わずに、対馬が今日、ロシアの占領地になっていると思ってごらん。極東の海上権は、とても今のように日本の手で握ることはできないであろう。  つまり外交上のことは、公法学も何もあったものではない。ただただ一片の至誠と、断乎たる決心をもって、上ご一人を奉戴して、四千余万の同胞が一致協力してやれば、なあに国際問題などはへでもないのさ。 [#ここで字下げ終わり]  小栗のことは一言も触れていないが、「こういう場合こそ外交家の手腕を要するものだ」と暗に小栗を批判したのである。  たしかに、毒をもって毒を制するやり方は海舟の方が数段上であった。小栗は先祖小栗又一と同じように正攻法で攻める時は強いが、相手によっては、もろくも敗れる一面があった。  この対馬事件の時、小栗は翌文久二年三月までの十カ月間、無役のまま悶々と過ごしている。  海舟と組んで対馬事件を解決した老中安藤信正が、坂下門外の変で失脚したため小栗はまたも復職、三月に小姓組番頭、五月に軍政御用取調、六月に勘定奉行勝手方を仰せつかっている。  上野介に任ぜられたのは、この年の六月である。吉良《きら》上野介《こうずけのすけ》の先例もあり、上野介はよくないから返上したほうがいいのでは、という声もあった。  小栗は「国のために命を失うは男子の本懐」と答え、意に介さなかったというが、吉良と同じように最後は不運であった。  人間には持って生まれた運命が、あるいはあるのかも知れない。  会津藩[#「会津藩」はゴシック体]  小栗がギリギリのところで頼ったのは、会津藩である。  会津藩とは一体、何か。  もし幕末に会津藩が存在しなければ、日本の歴史に士道はなかったであろうと司馬遼太郎はいったが、私もまったく同感である。  幕末の会津藩を象徴する人物の一人が、江戸を引き揚げる際に、駿河台の小栗宅に小栗を訪ねた秋月悌次郎である。  悌次郎は京都時代、会津、薩摩同盟を成立させた立役者である。見事な工作で、北と南の異質な藩を結び付け、過激な長州を京都から追放した。 「薩賊会奸《さつぞくかいかん》」  長州は会津と薩摩を憎んだ。  しかし蜜月長くは続かない。土佐の坂本龍馬のあっせんで、薩摩と長州が手を握り、会津を追放した。 [#この行1字下げ]「弊藩の儀は山谷の間の僻居罷在《へききよまかりあ》り、風気|陋劣《ろうれつ》、人心|頑愚《がんぐ》にして一に古習に泥《なず》み、世変《せいへん》に暗く制馭難渋《せいぎよなんじゆう》の土俗《どぞく》に御座候……」  これは江戸開城後に、会津藩が奥羽鎮撫総督九条|道孝《みちたか》に提出した嘆願書である。少々|遜《へりくだ》っているが、当たらずとも遠からず、会津にはそうした気風がある。悌次郎は京都でもてはやされたため藩内からうとまれ、蝦夷地の代官に左遷されたことがある。  それでも悌次郎は、会津藩をうらむことはない。 [#ここから2字下げ]    病中得る所  京洛《けいらく》、斯《こ》の時まさに謀《はかり》ごとを献ずべし  謫居《たつきよ》、病《やまい》に臥す、北蝦夷《きたえぞ》  死して枯骨《ここつ》を埋むるも、また悪《にく》むにあらず  唐太《からふと》以南これ帝州《ていしゆう》 [#ここで字下げ終わり]  悌次郎は秀でた詩人であった。都にいれば会津藩のために、謀りごとを献じていたのであろうが、自分は蝦夷地で病に臥す身である。ここに、枯骨を埋めるのも悪くはなかろう。なぜなら唐太以南は皆、帝の地であるから——。  悌次郎は極寒の地で会津をおもい、都をおもい、日本を考えていた。  薩摩が長州と手を結び、会津が放り出された時、悌次郎は蝦夷地にいたが急遽、都に呼び戻された。しかし、旧知の西郷と逢うことはできず、会津藩は鳥羽伏見で、ひどい敗北を喫し、虚《むな》しく帰郷する。  悌次郎は越後を駆け巡り、河井継之助と画期的な連帯、奥羽越列藩同盟を誕生させる。  幕府老中|板倉勝静《いたくらかつきよ》、小笠原長行《おがさわらながみち》は会津に身を寄せ、大鳥圭介、古屋佐久左衛門らも参戦する。小栗が来てくれれば、財政の面で、あるいは外交の面で、起死回生の策を打ってくれるに違いない。悌次郎に、そんな思いがあり、小栗の自宅に足を運んだのだった。  小栗と悌次郎が何を語り合ったか、その記録はない。悌次郎は晩年、九州熊本の旧制第五高等中学校の教授となり、同僚のラフカディオ・ハーンに「神のような人」といわしめている。  どんな時でも誠心誠意、ことに当たる。  それが悌次郎であり、会津の士風であった。小栗に相通じるものがあった。  小栗が妻や母堂を託した会津藩は、薩長倒幕派が目論む日本統一国家の前に立ちはだかる巨大な岩石であり、旧幕臣にとっては最後の砦であった。  東北戊辰戦争は、会津藩対薩長の死闘であった。初め仙台、米沢も会津を支援したが、白河が敗れ、長岡の河井継之助が敗れるに及んで、皆降伏し、唯一残ったのが会津藩だった。  山形の庄内藩、岩手の南部藩も最後まで戦ったが、薩長のネライは会津藩を叩くことであり、籠城した会津藩兵に一カ月にわたる砲撃を加えた。皆殺し作戦である。城内には婦女子もおり、そこはもう地獄であった。  最終的に会津藩兵の死者は三千余人を数えたが、町民や農民を加えれば、これをはるかに上回る犠牲を出していた。  この籠城戦で驚くことは、薩長軍参謀に和平の動きが、まるでなかったことである。相手は食糧、弾薬が欠乏し、落城は目前である。しかしこれでもか、これでもかと砲撃を加えている。土佐の板垣退助も参謀として会津にいたが、会津藩からの決死の助命嘆願で、やっと腰をあげている。士道の欠如である。小栗殺害にもかんでいた板垣だが、これは驚くべき人間性の欠如である。  この時の会津藩使者も悌次郎だった。悌次郎は変装して米沢藩陣営に駆け込み、両手を縛られて土佐の陣営に出頭している。  悌次郎は主君の助命と婦女子、老人の無罪放免を条件に、降参することを申し出て、一カ月に及ぶ会津の戦いに終止符を打った。  会津藩はこうした状況下にあり、このため小栗の妻子や母堂に対する援助も、決して十分なものではなかったろう。  しかし妻子と母堂が、命を落とすことなく生き延びたことは、陰に陽に会津藩の配慮があったからにほかならない。  蜷川新の『維新前後の政争と小栗上野介の死』の序文は、会津人|山川健次郎《やまかわけんじろう》の筆である。健次郎は白虎隊士として参戦、戦後、アメリカに留学し、東京帝大総長となった。 [#ここから1字下げ]  明治戊辰の年、旧幕臣小栗上野介の内室は誕生して久しからぬ一女児を伴い、予が親戚横山主税常守が会津の第《やしき》に寄寓《きぐう》せり、予、横山家の人々の談により、内室がその領地上野国権田の陣屋より避難し、新潟を経て会津へ来るまで、ひとえに辛苦を嘗《な》めし状態を聞き、同情にたえざりき。その後、小栗氏の虐殺《ぎやくさつ》、またその人となりを知るに及び、小栗氏に対する同情|益々《ますます》深きを加う。  小栗氏は徳川幕府の末路において、その識見手腕、天下に匹儔《ひつちゆう》なかりしなり。その廃藩置県を主張せるがごとき、横須賀の造船所を創建せるがごとき、識見手腕の一斑を見るべく、その他、外交に経済に、その国家に貢献せしものはなはだ多し、氏の捕えらるるや、一回の訊問《じんもん》なく、河原に引き出し、荒薦《あらこも》に座せしめ、斬首《ざんしゆ》の刑に処せられしという。これけだし武士を遇するの道を知らざる徒輩《やから》の蛮行《ばんこう》なりしなり。小栗氏の陣屋に武器多かりしをもって、彼等は小栗氏の罪過《ざいか》とせりという。  武家に武器あるは、さながら商家に商品あるがごとし。何ぞこれをもって罪とすべけんや。当時、世人は小栗氏が強硬なる長州征伐論者なりしにより、この奇禍《きか》に罹《かか》れりといえり。予この説の当否を知らず。友人|蜷川《にながわ》博士、小栗氏の伝を著し、序文を予にもとむ。交誼《こうぎ》上、辞すべからず。よって所懐《しよかい》を述べて序文に代う。  昭和三年八月 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]男爵 山川健次郎   この一文に小栗と会津藩の関係が明記されている。 [#改ページ]   十三 上州路  旧小栗本宅[#「旧小栗本宅」はゴシック体]  ここまで書いた時、私は無性に上州を歩きたくなった。この本の締めくくりを、自分の言葉で表さなければならない。そのためには、上州の山河を見つめながら小栗を改めて考えたい、そうおもったのである。  東北、越後を自分のフィールドにしている私は、郡山に仕事場を持っている。東北自動車道と磐越自動車道が交差しているので、東北にも関東にも、越後にも出やすい環境にある。  何度も通った上州は、もう身近な路であった。郡山南インターから高速道路に入り、栃木県|佐野藤岡《さのふじおか》インターで降り、国道五〇号線に乗る。  郡山と佐野藤岡間は約一五二・五キロである。時速一〇〇キロで走れば一時間半だが、途中で休憩したりするので、いつも二時間は見ている。  国道五〇号線は足利《あしかが》、桐生《きりゆう》を通って前橋に通じている。桐生までは四車線の広い道だが、桐生と前橋の間は、一部二車線となって、朝晩は走りにくい。  前橋まで来ると、県立図書館で本を捜し、時間があれば広瀬川ぞいの文学散歩をする。丸いエントランスをくぐると、正面が吹き抜けになっている前橋文学館には、詩人|萩原朔太郎《はぎわらさくたろう》の展示室がある。  ここを見て次は前橋市総社町の小栗の旧宅に向かう。上州権田村の観音山に建てようとした小栗の住まいは、建前が終わったところで競売に付され、最初落札したのは前橋の商人であった。その後、明治四十三年に、現在の都丸《とまる》家が住居として買い求めた。  小栗が住まいを建てようとした観音山は、前に川が流れ、両脇に沢があり、要塞のような雰囲気もある。守りを固めれば、暴徒の襲来程度は防げるかも知れない立地だった。むろん近代戦に耐える代物ではない。  究極のところ見晴らしのいい山腹の住まい、といったところであった。この前橋の小栗旧宅を見ると、その感を一層深くする。  小栗旧宅には何度か来たので、総社神社前を通ってすぐ来れるようになったが、最初は道が分からず、何人かに聞いて、やっとたどり着いたのを覚えている。  いつもながら、この家の前に立つと、不意に小栗が現われて来そうな気がする。庭に無造作に置いてある自転車や農機具を取り除くと、幕末にもどったような、たたずまいのせいかも知れない。  私は来るたびに角度を変えて写真を撮る。  この時お会いした当主は、いつも玄関をガラリとあけて、正面にどっかりと腰をおろし、懇切丁寧に話をしてくれるのだった。  名刺には [#ここから3字下げ] 徳川幕府勘定奉行 小栗上野介旧本宅   都丸茂雄(王洲) [#ここで字下げ終わり]  と書かれてあった。王洲は尺八の号である。 「しょっちゅう、見学者が来ましてなあー、息子夫婦はいやがって、別棟に住んでおるよ」  と、屈託がなかった。  由緒ある小栗旧宅も現代の暮らしには不便な造りで、 「この家も我々の代までかなあー」  という。  それにしても、金もかけてよく保存している。この家は、もはや歴史的な文化財といっていい。理想をいえば、いつの日か、倉渕町に戻し、訪れる人々に広く公開されることが望まれる。 「私もそれを願っておる。もともと先代が養蚕をやるために、この大きな家を買い取ったが、農業は私の代で終わり。したがって、この家を何時までも持ち続けることはできない」  かつて東京農大に学んだという当主は、私がお会いした時、将来について肚を固めているような素振りであった。  この辺りは、前橋の田園地帯で、もともと大きな農家が点在していた。都丸という名字が多く、右にも左にも都丸家がある。  皆、造りが大きく、旧小栗家が際立って大きいという印象はない。ここでは、小栗邸もごく普通の大きさであり、決して豪勢なものではない。勿論、武装のにおいはどこにもない。  そう思って見ると、玄関も格式ばったものではなく、小栗の素朴な人柄の一端を伺い知ることができる。小栗を再認識する意味で、ここは欠かせないところだった。  恩讐を越えて[#「恩讐を越えて」はゴシック体]  前橋からは、国道一七号線に入り、高崎を目ざす。前橋と高崎の間は町並みが、つながっていて、一つの都市といっても過言ではないが、二つの都市の間に、微妙な問題もある。  群馬県の県庁所在地は前橋だが、新幹線の駅は高崎にあることだ。どうしてそう決まったのか、時々、不思議におもう。  それはともかく、さすがに駅のある高崎の方が、活気に満ちている。  シンボルタワーもある。  観音山の山頂にある高さ四一・八メートルの白衣大観音像である。これはすごい。しばし見上げるしかない。ここから少し歩くと、朱色の桜門の清水寺がある。長い石段と紫陽花《あじさい》が有名だ。ここまで来ると、ほっとする。  小栗関連でいうと、養子又一主従の墓が近くの下斉田にある。  高崎から旧権田村、いまの高崎市倉渕町へは冒頭に書いたように、国道四〇六号線で向かう。地図の上では三〇キロ足らずだが、走って見ると、途中、起伏があり、道幅も狭いせいか、もう少し、あるような気がする。しかし、さすがに関東である。東北の三月はまだ肌寒いが、こちらは春めいた感じで随分暖かい。  午後になって俄かに天気が崩れ、榛名山の山頂に黒い雲がわいた。  風も冷たくなった。 「雨かな」  とおもった。  案の定、倉渕町の三ノ倉辺りに入ったところから雨になった。  遠く信越の山塊の方には青空もあり、それは一瞬の驟雨《しゆうう》であった。  私は傘をさして、烏川《からすがわ》の水沼河原におりた。ここは川幅が広く、石だらけの川底がむきだしになって横たわる。小栗の時代は、もっと水があり、美しい光景だったに違いない。いま川が風情に乏しいのは、全国共通かも知れない。そんなことをおもいながら、小栗の碑に足を運んだ。  雨が顕彰慰霊碑をぬらし、 [#この行1字下げ]「偉人小栗上野介 罪なくして此所《ここ》に斬らる 岳南蜷川新書」  の文字を、くっきりと浮かびあがらせていた。  この碑はなぜか文字が見にくく、はっきり読み取れないが、この日ばかりは、違っていた。  私は改めて蜷川新を想い、碑を建てた旧倉渕村の人々のことを考えた。  あの時、東善寺周辺で近郊の村人と撃ち合いがあり、犠牲者も多く出たため、すべての人が小栗を偉人とあがめたわけではない。  越後の長岡に行くと、あの英雄河井継之助にも批判があるように、「小栗騒動」といって、ここにも奥歯にものがはさまったような重苦しい雰囲気がある。小栗歩兵の銀十郎や磯十郎に殺された人々の末裔《まつえい》にとって、小栗をあがめることには抵抗があるからだ。  だが、そういった感情を乗り越えて、昭和七年、この顕彰碑が旧倉渕村の中心地に建てられた。村全体の声として、小栗の名誉回復が、なされたといっていいのだろう。  小栗に寄せる、倉渕町の人々の想いは、並々ならぬものがある。  小栗上野介顕彰会の存在とその機関紙「たつなみ」の発行もその一つである。  地元で名誉回復の動きが、具体的な形で起こったのは昭和三年である。  権田村は倉田村に変わっており、当時の村長市川元吉名で群馬県知事に贈位の上申を行った。以下はその時の上申書の要旨である。 [#ここから1字下げ]     記   故小栗上野介忠順  事跡 (一)横須賀造船所創設によって日本海軍の基礎を確立した。これは不朽の功績である。軍艦奉行、勘定奉行として外国より軍艦を購入し、日本国家のために重大な役目を果たした功績も大きい。 (二)日本国陸軍の建設に対する功績。元治二年、仏国より陸軍士官シャノワンを招き、日本陸軍を創設した。 (三)日本の外交に対する功績。万延元年、安政条約交換の大任を帯びて訪米、米国大統領より公式の迎接を受け、国務長官の饗宴《きようえん》に招待された。小栗は品格、知性、教養とも遜色なしと評され、日本国の名誉を高めた。 (四)日本の財政、経済上における功績。日本で初めて不換紙幣発行の必要性を主張し実行した。金銀量目の比較に注意し、小判の価値を高めた。日本で初めてガスランプ、郵便、鉄道、新聞などについて建言した。これらの功績は大である。 (五)誤解に対する弁明。小栗に対する非難は仏国の海軍を借りて、長州、薩摩を討たんとしたというが、これは単なる噂に過ぎない。そうした事実はない。これに対し官軍は上州烏川において、いささかも反逆の意思がないにもかかわらず斬首した。大正四年、横須賀海軍工廠が小栗を表彰したのは、小栗が反逆者でないためである。朝廷もその事をお認めになり皇后陛下が、御|内帑金《ないどきん》を下賜された。 (六)死亡の年月日ならびにその原因。慶応四年閏四月六日、官軍方の人々によって斬罪に処せられ、梟首《きようしゆ》された。罪名は「朝廷に対する反逆罪」。ただし何らの罪跡はない。これは世上明白である。 [#ここで字下げ終わり]  この上申は残念ながら選にもれる結果となった。小栗の名誉回復は、成功しなかった。  歴史の壁[#「歴史の壁」はゴシック体]  権田村の人々は、朝敵という厚い壁にぶち当たり、名誉回復の道の遠さを実感させられることになった。  官軍対賊軍の歴史が、権田村の人々に大きく立ちはだかったのである。  ここで改めて東山道総督府巡察使、大音竜太郎《おおとりようたろう》の届書をとり出して見よう。  大要次の届書である。 [#ここから1字下げ]  右上野儀、今春江戸において会津|容保《かたもり》、小笠原|壱岐《いき》らと申し談じ、王師に相い抗し申し候心得にてその采邑《さいゆう》、上州群馬郡権田村に引退、絶嶮《ぜつけん》の地を択《えら》び、保塁《ほるい》を構え兵を募《あつ》め候。折柄、旧幕の苛政《かせい》を恨み候百姓ども蜂起致し候に付、上野指揮にて、民舎を放火し、無辜《むこ》の細民《さいみん》を打ち殺し、その上申し唱え候には、官軍たりとも吾が采邑へ踏み込み候者は、一人も洩らさず、打ち取り申すべくなど、非礼の申し条|言語道断《ごんごどうだん》に付、高崎、吉井、安中三藩へ命ぜられ問罪の使、指し向け候処、器械を隠し、養子又一を降人として高崎藩へ差し出し候に付、いったん三藩引きあげ申し候えども、何分事跡|暗件曖昧《あんけんあいまい》、これにより再び、三藩差し向け候ところ、謝罪申し出候に付、とくと取り糺《ただし》候ところ、雷火帽付鉄砲数十挺、土中に隠し、埋め置き致し候より、詰問、罪跡《ざいせき》判然、深く恐れ入り候段申し出候えども、そのまま捨て置き候えば、越後屯集の賊に謀《はかりごと》を通じ、容易ならざる場合に立ち至り候間、即時、上野父子並びに家来六人打ち捨て申し候、以上    大戊四月 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]大音竜太郎   小栗の梟首《きようしゆ》は当然とする報告書である。  その理由をまとめれば、一、会津藩主松平容保、老中の小笠原|長行《ながみち》と碓氷峠《うすいとうげ》で徹底抗戦することを談じていた。二、権田村に隠退後、保塁を構え、無辜の細民を打ち殺した。三、権田村に踏み込む者は、官軍たりといえど一人も打ち洩すなと暴言を吐いた。四、高崎、吉井、安中三藩の兵を差し向けたところ謝罪を申し出たが、取り調べたところ雷火帽付き鉄砲を数十挺、土中に隠していた。五、以上罪状は明白であり。斬首は当然というものだった。  新聞にも同じような記事が流されていた。 [#ここから1字下げ]     小栗が最後のさま  上州草津街道室田銀山の在に、権田原《ごんだわら》というところあり、近頃小栗上野介このところに新堡を築んとするの風聞《ふうぶん》あるによりて、官軍総督府より、高崎、安中、吉井、小幡へ討手を仰せ付られ、御人数|已《すで》に押寄せければ、上野介は降参に及び、総督府へ伺いの上にて死罪に行われたり。もっとも所持の大砲小銃はことごとく高崎の手に請け取り、閏四月七日|板鼻《いたはな》宿にて引き揚げたり。また嫡子某は高崎藩に就いて降参すれども、その罪|宥《ゆる》されず、これも昨六日に死罪のよしにて、見物の人々群集なしたる由。去る寺院の後の山、新築の目論見《もくろみ》ありしと見えて、その絶頂に斥候台の様なる物を建て、このところ地理要害の究竟《きゆうきよう》なる場所にて、石材木等数多く取あつめあり、その外の貯金数十万両、並びに諸道具類はことごとく高崎安中へ御預に成たるよし。  この一条は板鼻宿を通行したる人の物語を記す。(「東京日日新聞」閏四月二十六日) [#ここで字下げ終わり] 「日日新聞」のこの記事は、薩長軍側の一方的な情報で書かれ、数十万両の公金を持ち出した小栗は、打ち首当然と世論の盛り上げを図っていた。  蜷川新は小栗梟首の責任者、原保太郎に会い、問い詰めている。  原は「板垣参謀から斬首せよと命ぜられた。その理由はフランスから軍艦と資金を得て、長州を倒滅しようとしたことだ」と語ったという。これは先に見た原の供述書と同じである。  蜷川はさらにその背後に岩倉|具視《ともみ》ら朝廷方の勢力がいる、彼らが真犯人だと追及する。  私は雨のなか、もう一度、観音山に登った。榛名山頂は雨雲に覆われ、視界は悪かったが、前方はよく見渡せた。  もしも、小栗がこの観音山ではなく、烏川《からすがわ》のそばの平地に家を建てようとしたらどうだったろうか。どこに建てようが板垣らが謀殺を図った以上、梟首は免れなかったであろうが、小栗の足りないところがあったとすれば、すこし構え過ぎたことかも知れなかった。  武器も捨て、どこからでも来いと、開き直れば、案外攻め切れなかったのではないか、とおもったりした。  大坪指方[#「大坪指方」はゴシック体]  小栗上野介が我々に残したものは何か。  私は観音山を下りて東善寺の境内に戻って、もう一度、小栗の像の前に立った。  この像は戦前、横須賀の諏訪公園にあったものである。大正四年に横須賀海軍工廠創立五十周年の記念式典があり、小栗はその創設者として誉えられ、指導に当たったフランス海軍の技術士官ヴェルニーとともに、胸像が立てられたのだった。  しかし戦時中、供出されてしまったが、幸い原型の石膏像が残っていて、この地に移設することができたのである。  当代随一の彫塑家朝倉文夫の作であり、小栗の表情には輝くばかりの気品がある。実は倉渕町より早く、海軍の内部で上野介の名誉は回復されていたのである。  五十周年の日、祝辞を寄せた内閣総理大臣大隈重信は、 「工廠ははじめ横須賀製鉄所と称し、実に今より五十年前、仏国政府と我が日本政府(幕府)との交渉によりて、生まれ出たるものなり。この交渉たるや、日本側においては主として小栗上野介の関与する所なりしが事、小栗の発意にもとづくか、仏国政府の勧誘によるか、今これを明らかにせずといえども、とにかく小栗氏の尽力によりて仏国は日本政府のために製鉄所創設の業を援助することに決したり……」  と、我が国の総理大臣として、初めて小栗の功績を認めた。  小栗の発案か、フランスの勧めか、その辺は分からないとした点で、大隈の祝辞はいま一つ、歯切れが悪かったが、幕府を日本国政府としたことでも、画期的な祝辞であった。大隈が薩長ではなく佐賀の出身であったこともあずかっている。  歴史の面白さが、ここにもある。  小栗の名誉回復は、これがきっかけとなって、大きく前進するが贈位までには至らなかったわけである。それにしても、なんと多くの人が、小栗に取りつかれて来たことか。  その代表的な人物は大坪|指方《しほう》のように思う。  随想のような小さな作品も多いのだが、昭和の初期、蜷川新に会って以来、戦後のごく近年まで一貫して小栗を追い求めて来た。戦前は海軍省の海軍博物館につとめ、戦後、東京教育大で教壇に立った大坪指方は、村の人々にも大きな影響を与え、倉渕町の小栗研究を盛んにさせた。  大坪が小栗にのめり込んだもう一つの理由は、天皇のためなら何をしてもよいのだと教え込み、結局、日本を誤らせた戦前の薩長藩閥政治への批判があった。 「歴史研究とは燃え尽きた灰をかきまわすことではない。これから、我等がいかに、よりよき社会を造り出すか、それを考えるための学問であり、その道へ導いてくれる大切な灯火《ともしび》でなくてはならない」という大坪の考えは、説得力に富み、村の人々は大坪が来村するたびに、村内を案内して歩いた。  象牙の塔の学者と違って大坪のやり方は、とことん調べて歩くというものだった。市川八十夫をはじめ小板橋良平、市川光一ら地元の研究者は、皆、この系譜を引いている。 「小栗研究をやるならまず権田にコンパスの基針を刺し、一里四方に円を描き、その中の村々を歩くこと、すんだらさらに、一里ずつ広げて探《たず》ね、その名主や村役人をした家の古文書を見せてもらうこと」——という大坪の手法は作家の長谷川伸の伝授だというが、おかげで、文章にさびがきいていて小栗を取り巻く人々が生き生きと現われてくるのだった。  大坪が小栗研究に取り組んだ頃、中央では、小栗など研究の対象にならぬとタブー視され、資料もなく、時勢を知らぬ三河武士の生き残り程度の評価だった。  大坪の文章には、それをはねのけた自負と、大坪ならではの足で稼いだエピソードがふんだんに取り込まれていた。 「お首級《くび》迎え」という一文がある。 「時は明治二年三月の始め、館林法輪寺の門前に立った男がいる。一人は和尚顔見知りの渡辺忠七だが、今一人の身は質素な百姓姿ながら、どこかドッシリした物腰は腹に一もつ、手に荷物といったところ、相当のものらしい」  長谷川伸ばりの書き出しではじまるこの文は、小栗夫人を静岡まで送って権田村に帰った中島三左衛門が小栗父子の首級《くび》を受けとりに姿を見せた時の話である。 「ぜひお殿さまの首がほしい。どうせ戦場で捨てた命だ、いやなら刀にかけても無理に持って行く。さあー命か金かどっちだ」  三左衛門はこう啖呵《たんか》を切る。  読ませるコツも心得ている。  大鳥圭介が東善寺に姿を見せ、涙をぬぐいながら、 「この地下に眠る方は、かかる山峡で空しく斃《たお》れるようなお方ではない。いかに時世とは申せ残念千万、本来、自分が率先して顕彰にあたらねばならぬのだが、立場上、いかんともしがたい。元来、上毛の人は義気に富むと聞く、よろしく頼む」  といったというのもある。  歴史の研究には時の為政者《いせいしや》が新しい時代を造るために都合のいい資料を基礎にして、国家倫理史的な国民教育を目的とする歴史がある。これに対してその時代にあった事実を、明確にとらえて、確実な資料、偏らない史観を後世に残す、純正史学があると、大坪はいう。  私もこの倉渕町を歩いて、幕末維新史の探究に、大きな示唆を得たような気がする。  小栗の領地は、この権田村だけではない。権田村は二千七百五十石のうち僅かに三百七十五石であり、他は同じ群馬郡の下斉田《しもさいだ》村、与六分村、多野郡の森村、小林村、下野《しもつけ》国足利郡高橋村、大沼田村、上総《かずさ》国武射郡稲葉村、下総《しもうさ》国香取郡五反田村、堀内村、大川村、田辺村などに分かれていた。  小栗は、このなかから権田村を最後の地に選んだ。  小栗はある意味で不幸な結末となったが、永い歴史のスパーンで考えると、必ずしもそうとはいえず、蜷川新や大坪指方はじめ倉渕町の人々の暖かい支えによって、永遠の眠りに就くことができたのである。 [#改ページ]   あとがき[#「あとがき」はゴシック体]  今回、『山川健次郎の生涯』に続いてこの本が、ちくま文庫に入った。大変うれしいことである。担当の鎌田理恵さんにお礼を申し上げる。  倉渕町には小栗上野介顕彰会があり、定期的に機関誌「たつなみ」も出しており、そのレベルの高さには定評がある。  罪なくして斬られた小栗だが、多くの暖かい支持者に囲まれ、人々の心に永遠に生き続けているのは、素晴らしいことである。  巻末の関係文献は、倉渕町・市川八十夫編の「小栗上野介関係文献と史料目録」、年譜も同じ倉渕町の小栗上野介顕彰会編の「小栗上野介略年譜」に負うものである。文中の登場人物は敬称を略した。引用文も一部現代文に書き改めた。  なお取材や校正に当たり、お世話になった方々の名を記して謝意を表したい。(順不同)  柴木宗一郎・原田惣司・塚越真一・村上泰賢・市川八十夫・市川平治・市川光一・石井滋基・塚越昇・戸塚精一・佐藤勝吉・佐藤充彦(倉渕町)・小板橋良平(安中市)・都丸茂雄(前橋市)・北爪隆雄(大胡町)・鈴木由美子  資料整理 田中千賀・本田征代・當間菜美   平成二十年六月 [#地付き]星 亮一  [#改ページ]   小栗上野介略年譜[#「小栗上野介略年譜」はゴシック体] 文政十年(一八二七) 六月二十三日、江戸駿河台邸に誕生。幼名剛太郎。 天保五年(一八三四) 八歳 この頃から漢学、剣道、柔術、砲術を学ぶ。 天保十四年(一八四三) 十七歳 初めて登城、将軍に初御目見得をする。 弘化四年(一八四七) 二十一歳 部屋住から城中出仕となる。 安政二年(一八五五) 二十九歳 父忠高病死。跡目を相続、又一と改名する。 安政四年(一八五七) 三十一歳 十二月十六日|布衣《ほい》。(従六位相当) 安政六年(一八五九) 三十三歳 十一月二十一日、叙爵従五位下、任|豊後守《ぶんごのかみ》。十二月一日、アメリカへ本条約交換の為差遣される旨命ぜられる。職務は目付。(監察で全権と同格) 万延元年(一八六〇) 三十四歳 一月十八日、米艦「ポーハタン」に乗組み出帆。四月三日、条約文書交換の使命をはたし、九月二十八日横浜帰着。十一月八日、外国奉行に任ぜられる。 文久二年(一八六二) 三十六歳 御軍制御用取調を命ぜられる。六月五日、勘定奉行(勝手方)に任ぜられ、上野介《こうずけのすけ》となる。八月二十五日、江戸町奉行に任ぜられる。十二月一日、歩兵奉行に任ぜられる。(初代) 文久三年(一八六三) 三十七歳 七月二十八日、陸軍奉行並に任ぜられる。 元治元年(一八六四) 三十八歳 フランス公使レオン・ロッシュと協力、幕政改革に尽力する。十二月十八日、軍艦奉行に任ぜられる。 慶応元年(一八六五) 三十九歳 横須賀製鉄所(造船所)建設を計画。八月一日、横浜に仏語学校を設立。九月二十七日、横須賀製鉄所鍬入式を行う。 慶応二年(一八六六) 四十歳 八月、海軍奉行を兼任する。十一月十九日、横浜に陸軍伝習所を開き、歩、騎、砲三兵士官の養成を開始する。 慶応三年(一八六七) 四十一歳 この年、貿易、金融、経済、軍事と多方面にわたって縦横の手腕を振う。 慶応四年(一八六八) 四十二歳 一月十二日、江戸城大会議で主戦論を主張し敗れ隠退、三月一日、権田村東善寺に入る。三月四日、暴徒来襲、家臣及び村民約百名を率いて撃退。四月十日、村内観音山に居宅建設を始める。四月二十二日東山道総督、高崎藩などに小栗追捕の命を下す。閏四月六日朝、三ノ倉の西、水沼河原で家臣とともに斬殺される。 [#改ページ]   小栗上野介関係文献[#「小栗上野介関係文献」はゴシック体] 福地源一郎『懐往事談』明治二七年四月刊、昭和五四年、東大出版会復刻 福地源一郎『幕末政治家』明治三三年六月刊、東大出版会復刻 福地源一郎『幕府衰亡論』昭和四二年二月、東洋文庫復刻、平凡社 田辺太一『幕末外交談』昭和四一年六月、東洋文庫復刻、平凡社 勝 海舟『氷川清話』昭和四七年、角川文庫復刻 栗本鋤雲『匏菴十種』明治二年三月刊、昭和四四年、明治文学全集収録、筑摩書房 勢多桃陽『小栗上野介』明治三四年一〇月、少年読本第四十号、博文館 塚越停春楼『読史余録 小栗上野介』明治三四年一一月、民友社 塚越停春楼『小栗上野介末路事跡』大正四年九月二七日、横須賀海軍工廠にて配布 塚越停春楼『小栗上野介末路事跡補正』大正四年九月二七日、横須賀海軍工廠にて配布 蜷川 新『維新前後の政争と小栗上野介の死』昭和三年九月、東京・日本書院 蜷川 新『続維新前後の政争と小栗上野介の死』昭和三年九月、東京・日本書院 十菱愛彦『戯曲 小栗上野の死』 [#ここから4字下げ] 付録(蜷川 新執筆) (一)小栗上州を廻る維新前後の史実 (二)小栗の死に対する今人の同情 (三)旗本没落の悲哀、昭和四年二月、東京・第一出版社 [#ここで字下げ終わり] 阿部道山『小栗上野介正伝』昭和一六年一〇月、東京・財団法人海軍有終会 海音寺潮五郎『小栗上野介』昭和一七年一一月、東京・国文社 神長倉真民『ロセスと小栗上野介』昭和一〇年六月、東京・ダイヤモンド出版 小西四郎『川路聖謨と小栗上野介』昭和三四年、朝倉書店 蜷川 新『維新正観』昭和二八年八月、東京・千代田書院 蜷川 新『開国の先覚者 小栗上野介』昭和二八年八月、東京・千代田書院 大坪指方『小栗上州掃苔記』昭和二二年五月 大坪指方『小栗上野介忠順家系及び略年譜』昭和二八年四月、倉渕村・小栗公顕彰会 大坪指方『仁義併存碑ものがたり、権田に於ける小栗さん』昭和三一年五月、倉渕村・小栗公顕彰会 大坪指方『小栗上野介研究資料 落穂ひろい』昭和三二年四月、倉渕村・小栗公顕彰会 小板橋良平『倉渕村明治の夜明け—小栗上野介の事跡』昭和四二年四月、倉渕村史資料報告書第一七号 穂積 驚・大坪指方『小栗上野介』昭和五〇年、横須賀市・小栗上野介を偲ぶ会 中村光夫『雲をたがやす男』昭和五二年二月、集英社 服部逸郎『七七人の侍アメリカへ行く—万延元年遣米使節の記録』昭和四三年九月、講談社 高橋恭一『横須賀造船所創設とその二恩人』昭和二七年、横須賀市役所 大島昌宏『罪なくして斬らる 小栗上野介』平成六年、新潮社 市川光一・村上泰賢『幕末開明の人・小栗上野介』平成六年、東善寺 石井 孝『明治維新の国際的環境』昭和四一年、吉川弘文館 石川 孝『勝海舟』昭和四九年、吉川弘文館 尾佐竹猛『幕末外交使節物語』平成元年、講談社学術文庫 坂本藤良『小栗上野介の生涯』昭和六二年、講談社 宮永 孝『万延元年のアメリカ報告』昭和六三年、新潮社 綱淵謙錠『幕臣列伝』昭和五六年、中公文庫 早乙女貢『非凡の開明派小栗上野介』昭和三九年、「文藝春秋」臨時増刊五二巻二号 星 亮一『小栗上野介』平成八年、成美堂出版 童門冬二『小説 小栗上野介——日本の近代化を仕掛けた男』平成一八年、集英社文庫 『会津戊辰戦史』昭和八年、東大出版会 平石弁蔵『会津戊辰戦争』大正元年、丸八商店出版会 小板橋良平『勝海舟のライバル、小栗上野介一族の悲劇』平成一一年、あさを社 『群馬県資料集 第七巻 小栗日記』昭和四七年、群馬県文化事業振興会 『倉渕村誌』昭和五〇年、倉渕村 『六合村誌』昭和四八年、六合村 『津南町史』昭和六〇年、新潟県津南町 『小出町歴史資料集 明治維新編』昭和六三年、新潟県小出町教育委員会 『上毛及上毛人』上毛新聞社刊、おもな掲載資料 早川桂村「幕末の偉人小栗上野介」 (大正六年早川氏経営の『関東の青年』に「幕末の奇傑小栗上野介」を連載)  五八号〜六二号、六五号〜七〇号 早川桂村「小栗父子の墓所に就て」 (塚本真彦の母・女の最期、小栗家家財処分にまつわる奇異についても記述)一五三号 豊国覚堂「横須賀開港五十年式典に際して」七号 豊国覚堂「横須賀海軍工廠と小栗上野介」一三号、一四号 「小栗上野介主従の墓・東善寺の客間・邸宅を建築し始めた観音山」八四号 口絵写真 豊国覚堂「小栗父子功罪の弁」八四号 豊国覚堂「小栗父子功罪の弁に就て」八五号 小栗貞雄「小栗上野介の冤罪は雪がれ申候」八六号 福島 甫「小栗家の縁家伊勢崎に」九一号 小栗信義「小栗家に関する記録」九三号〜九八号 豊国覚堂「小栗上野介遺跡探検記」八四号 蜷川 新「小栗上野介に就て」(蜷川氏より豊国氏宛手簡)一三〇号 中村孝也「人傑 小栗上州」一三四号 「日本にて始めて派遣したる遣米使節一行」一三四号 口絵写真 蜷川 新「中村博士の『小栗上州』を読みて」一三五号 小栗貞雄「小栗上野介の真面目」 (豊国覚堂氏宛手簡と中里介山『大菩薩峠』の抜抄)一三九号 「横須賀公園に建設せし小栗上野介胸像除幕式の光景」一三九号 口絵写真 「小栗上野介父君の墓所と大隈伯夫妻等」一四〇号 口絵写真 豊国覚堂「小栗上州の贈位漏れについて」一四〇号 堀田老文学士「幕末顕官の叙位について」一四〇号 花見朔巳「幕末の偉人 小栗上野介」一四〇号 新潟新聞所載「小栗上野介と大隈夫人」一四〇号 豊国覚堂「大森知事と小栗上州と高山先生」一四〇号 黒岩敏而「机上雑感」(夫人の脱出の経路、挿話、上野介と中居重兵衛)一六六号 蜷川 新「人間の価値は官位の上下には無之候」(豊国覚堂氏宛手簡)一四〇号 豊国覚堂「小栗家由緒書の本末」一五二号 新井信示「小栗上野介夫人と吾妻郡」(其苦心逃走の跡)二一一号 新井信示「佐藤藤七の世界一周記を発見」二一二号 小栗又一「緑の地平大宮行」(岡田首相と小栗上野介)二二〇号 小栗又一「小栗上州の慰霊祭」(これは横須賀におけるもの)二二三号 市川亭三郎「小栗上野介忠順を憶う」 (昭和一二年五月一五日、前橋放送局より放送)二四二号 本宿 高橋真道所蔵「我国最初の遣米使節、小栗上野の航海日誌」二七〇号 『たつなみ』小栗上野介顕彰会発行、主な掲載資料 市川八十夫「小栗上州公顕彰のあゆみ」一号 塚越真一「勘定奉行と小栗上野介」一号 小板橋良平「権田の名主佐藤藤七と渡海日記」一号 大坪指方「小栗さん随想—思い出すままに」二号 村上照賢「上州公の遺品について」二号 塚越真一「小栗・栗本・ウェルニー」二号 大坪指方「小栗さん随想、百十年祭に憶う」三号 小板橋良平「小栗夫人の権田脱出路踏査記」三号〜一九号 市川八十夫「小栗公関係文献資料について」三号 小栗忠人「百十年祭に寄せて」三号 大坪指方「小栗公掃苔、海の国から山の国へ」四号 小栗忠人「林田藩と勤王」四号 佐藤久男「私の家に伝わる小栗上野介忠順公の話」四号 小栗忠人「たつなみ五号によせて」五号 大坪指方「小栗家と大宮普門院」五号 池田左善「小栗上野介と勝海舟」五号 塚越真一「ここにも悲しい犠牲があった。塚本真彦母堂と息女自決の場所を訪ねて」五号 市川八十夫「小栗家の守り本尊東善寺にかえる」五号 小栗忠人「蜷川博士とその名著」六号 大坪指方「蜷川新先生と木村摂津守」六号 塚越真一「常陸大掾・小栗忠順」六号 大坪指方「小栗随想、思い出草」七号 山田央子「咸臨丸長官木村摂津守」七号 塚越真一「殉難碑の建立について」七号 市川八十夫「交流を深める横須賀市と倉渕村」七号 大坪指方「小栗上州逝いて百十五年」八号 小栗忠人「小栗上州の籠絡策」八号 池田左善「忠順公権田隠棲余話」八号 塚越真一「宇垣大将小栗上野介の陵墓を参詣」八号 小栗忠人「埋蔵金よもやま話」九号 小栗忠人「通観独語」一〇号 森正「滝の川反射炉について」一〇号 刀弥愛子「小栗上野夫人及母堂潜行路」一〇号 村上照賢「東善寺と小栗家」一〇号 坂本藤良「株式会社の原型、小栗上野介と兵庫商社」一一号〜一四号 小栗忠人「幕末行政改革と小栗上州」一一号 村上照賢「横須賀市と倉淵村を結びつけた人」一一号 小栗忠人「亀沢における小栗上州」一二号 佐藤久男「小高の用水路と小栗公」一二号 小栗忠人「今昔を越えて」一三号 市川八十夫「墓前の椿」一三号 塚越真一「大樹影をおとす」一三号 小栗上野介顕彰会「小栗公百二十年祭記録」一三号 小栗忠人「日露戦争と小栗忠順」一四号 市川八十夫「越後・会津慰霊の旅」一四号 河辺和夫「新聞に載った小栗上野介」一五号 川島維知「消えた小栗上野介父子の首」一五号 小栗忠人「義人中島三左衛門」一五号 市川八十夫「再び会津へ」一五号 南條範夫「小栗上野介の意地」一六号 河辺和夫「小栗上野介と三野村利左衛門」一六号 小栗忠人「海舟暗殺と小栗上州」一六号 村上泰賢「会津から二組の小栗上野介墓参団」一六号 河辺和夫「嘉永六年の家計簿」一七号 塚越真一「東善寺の類焼とその再建」一七号 小栗忠人「若き日の小栗上州」一八号 塚越停春楼「小栗上野介末路事跡」「小栗上野介末路事跡補正」一八号 横山和夫「小栗公への思い」一九号 小板橋良平「高崎で斬首された小栗又一主従の始末記」「中島三左衛門首級奪取の顛末」「塚本真彦一家の死と姉妹観音像建立記」一九号 市川八十夫「埋れ木をほる」二〇号 小板橋良平「小栗騒動余話と秘話」二〇号 小板橋良平「小栗関係通説の誤りを検証する」二一号 小板橋良平「小栗上野介主従処刑の真相」二三号 市川八十夫「小栗上野介顕彰について」二三号 村上泰賢「小栗公一三〇年祭記念シンポジウム」二三号 村上泰賢編『小栗忠順のすべて』平成二十年四月 新人物往来社 [#改ページ] 星亮一(ほし・りょういち) 一九三五年、仙台市に生まれる。東北大学文学部国史学科卒業。福島民報記者、福島中央テレビ報道制作局長を経て文筆業。二〇〇二年、日本大学大学院総合社会情報研究科修了。取材の眼はいつも歴史と人間に向けられている。『奥羽越列藩同盟』で一九九六年度福島民報出版文化賞受賞。著書に『明治を生きた会津人 山川健次郎の生涯』『会津戦争全史』ほか多数。 本作品は一九九五年六月、教育書籍より『上州権田村の驟雨——小栗上野介の生涯』として刊行され、二〇〇〇年八月、加筆修正の上『最後の幕臣 小栗上野介』と改題されて中公文庫に収録された後、二〇〇八年八月、ちくま文庫に収録された。